転覆し、川の濁流に弄(もてあそ)ばれた船体は、痛ましいまでに傷ついていた。中央部はまるで絞った雑巾のようにねじれており、自分があそこにいたのかと思うと、ぞっとせずにはいられなかった。 おそらくヘンリーとノーマンは、船が倒れきる前に、船外に放り出されたため、大した傷を負うこともなく無事だったのだ。運が良かったという他ない。 もはや半分残骸と化した船は、川面の木々によって、まるでそう、昆虫採集の標本のように、川の真ん中に留められていた。 船長も船員も、そして乗客たちも皆、あの濁流に呑み込まれ、命を落としてしまったのか……。 ヘンリーはその光景を想像し、ブルッと体を震わせた。 するとノーマンが、 「恐ろしいな」 と言うのが聞こえた。しかし意味が違った。 「こんど大きな流れがあの船を直撃したら、下流にいる我々は無事では済まんぞ……」 なるほど確かにそのとおりである。いまやるべきは、過ぎ去った事故に思いを馳せることではない。現状で起こり得るべき最悪の事態を想定し、対処する方策を練ることだ。 考えてみれば──。 ヘンリーは、常に過去に執着して生きてきた。未来予想図を描いたこともなく、過去に受けた非道の仕打ちに復讐することだけを原動力にして生きてきた男。 逆にノーマンは、いつも未来を見つめていた。他人に対する思いやりや哀れみもなく、ひたすら自分の野望を実現することだけに邁進してきた男。 なんと二人の生き方の真逆なことか! ……いや違う。ヘンリーは首を振る。 確かにこの十六年という長き年月、自分は復讐だけを念じて生きてきた。そのことに後悔はない。しかしその間、一度も思い悩まなかったと言えば嘘になる。 特にこの五年間。もしノーマンを見つけることができなかったらどうしよう。死んでいたらどうしよう。そう思うと眠れない日もあった。セルフコントロールに苦しみ、精神科の診察を受けたこともあった。しかし自分はそんな苦境を乗り切った。そしてノーマンを発見した! 復讐が完了すれば、そこから自分の未来が始まるのだ。そのためにこそ、これまでがんばってきたのだ。 決して未来をないがしろになどしていない。 決して──。 「ノーマン! ノーマン・グリーンウッド!」 首をねじって船を見つめていたノーマンは振り向いた。 「なんだね、ハンス・マグワイア」 「まだ教えてもらってないことが……あります」 「ん?」 いぶかしげに小首を傾げるノーマンに対して、しばし躊躇した後、ヘンリーは腹に力を入れて叫んだ。 「まだ質問に答えてくれていません」 「質問?」 「なぜ“組織”を裏切ってまで世間から身を隠したのか、なぜ、会社も何もかも捨てて、こんなところで暮らしているのか、です」 「……ああ、そうだったな。しかし今はそんな話をしている場合じゃないだろう。危険な状況で──」 「いま必要なんです!」 ヘンリーは自分でも驚くほど大きな声を張り上げた。ノーマンは意外そうな顔をしながらも、ヘンリーの表情に何かを感じ取ったらしく、口をつぐんでしまった。 沈黙が流れる。それでも先に破ったのはノーマンだった。ため息を一つつくと、 「判った、話そう。そのつもりだったんだからね」 |
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