「裏切った……」 「ああ。“組織”が巧妙な手口で警備の目をそらしてくれたおかげで、移動ベッドに乗った私、フランク、ティムの三人は、誰にも気づかれず病院を脱出することができた。しかし筋書きに乗っかったのはそこまで。私はフランクに言って事前に用意させた車に乗り込むと、計画にない方角へと全速力で走らせた──」 ヘンリーの頭は混乱した。どういうことだ。 要するにノーマンは脱出に手を貸した“組織”さえ振り切って姿を消したと言っているのだ。なぜ? しかもその後、グリーンウッドグループを一切かえりみることもなく消息を絶ち続けていた。なぜ? 疑問が疑問を生み、謎は解けないまま、どんどん膨らんでいく。 「どうして……どうしてなんですか?」 ヘンリーは核心に迫るべく、身を乗り出すようにしてノーマンの顔を正面から見据えた。 ノーマンは、ふうと息を吐くと、 「私はこの五年間、世間との表立った交流を一切断ってきた。私を見つけようとする連中の影が差せば、すぐに隠れ家を移した。そうやって生き延びてきたが、とうとう君に発見された……いや、以前からフランク達には言い含めておいたんだ。もしも追っ手が君だったら、私の元へ誘導してくれとね」 「なぜ?」 もはやヘンリーの口からは疑問符しか出てこない。 「なぜ、かい? それは君がこの世でおそらく唯一、私の真情を理解してくれる人間だと思うからだよ。……思い出すじゃないか。私たちはよく美術館で会っては一緒に作品を批評しあったね」 ノーマンは照れを隠すように右手で白髪をかき上げると、視線を足許に落とした。 ヘンリーは予想もしていなかった告白を聞かされ、別人を眺めるような目つきで相手を見つめ直した。ノーマンの物言いは、社長が一秘書に向けたものではなく、長年の親友に対するもののようであった。そういえば先ほどからの彼の態度には、思い人に再会したとでもいうような高揚感がかいま見えた。ノーマンはきっと、ヘンリーは自分の身を案じて、ここまで追いかけてきてくれたのだと信じ込んでいるのだろう。 胸に秘めた復讐の炎をうかがい知ることもなく──。 「社長」 「……その肩書きはもういいよ」 「いいえ社長、教えてください。なぜ、そうまでして世間から身を隠したのですか? これまで積み上げてきたものをかなぐり捨ててまで」 テーブルを挟んで二人の間の距離は、ほんのわずかだ。この間合いなら撃ち損じることはない。確実に仕留める自信がヘンリーにはある。フランクとティムが止めに入る暇もないだろう。 しかし、このままノーマンの行動に関する謎が謎のまま消えてしまう事態もまた、我慢がならない。十六年越しの仇なのだ。奴のすべてを把握した上で、正義の鉄槌を振り下ろさなければ意味がない。ヘンリーにはそう思えるのである。 船が向きを変えた。また違う支流に入っていこうとしている。遠心力に二人の体が傾く。 「……判った。話そう。そのために来てもらったんだからね」 その時だった。大きな衝撃が船体を揺るがした。 ヘンリーとノーマンの体が、ゴムまりのように椅子から浮き上がった。 「な、なんだ?」 テーブルのワインボトルやグラスが宙に舞った。 赤い液体が、まるで返り血のようにはじけ飛んだ。 どこからか怒号と悲鳴が聞こえてくる。 ヘンリーの目の隅で、フランクとティムの体が壁に打ち付けられるのが見えた。 ヘンリーも傾いた床の上を転がった。途中で柱につかまろうとしたが、滑ってきたテーブルに側頭部を叩かれ、さらに転がり落ちていった。 「社長! 社長!」 船はさらに傾きを増していく。このままでは沈没する。船といっしょに水の下に引きずり込まれる。 とにかく外に出なければ。彼はやみくもに明るい方向を目指した。 「ハン──ハンス!」 呼ばれて振り向くと、そこにノーマンが横たわっていた。ヘンリーは腕を伸ばし、ノーマンの脇に差し込むと引きずりあげた。そして今や床になった壁の上を少しずつ窓を目指して前進した。 衝撃が二度、三度と襲ってくる。どこかでガラスが割れる。メリメリといういやな音と共に周囲の板壁がはがれていく。人々の叫び声がいくつも交錯する。 ヘンリーが記憶しているのは、そこまでである。 |
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