We're alive
No.15

ニューヨーク 5

 ヘンリーはしばらくしてソファから立ち上がると、雪の降る夜の街へと出ていった。
 家に帰っても今夜は容易に眠れそうもない。ひさしぶりに酒でも飲みたい気分だ。
 美術館を除いて、ふだんはあまり出歩くことがないので、店の場所も善し悪しも彼にはよく判らない。とりあえず目についた地下のバーに入った。
 樫の木で作られた重々しい扉を開けると、物憂い生ピアノの調べが暖かい空気に乗って流れてきた。照明を抑えた店内は程良く品の良さそうな雰囲気だったので、ひとまず安心した。カウンターに腰を下ろすと、やはり品の良さそうなバーテンにマティーニを頼んだ。
 ヘンリーは酒は好きだが決して強くはない。それでも今夜は特別だと、立て続けに同じものを三杯も飲んだ。あと三年という数字に掛けたのかもしれない。
 三十二歳になる頃には、あの男の側近としてすべてを把握できる立場になる。そうすれば生かすも殺すも指一本だ。全資産の名義を自分の名前に書き換えてやろうか。それも、ひざまずく彼の頭を銃で小突きながら、あの男自身にやらせようか。一発ぐらいお見舞いしてもいいだろう。父さん母さんや姉さんの受けた苦痛に比べれば大したことじゃない。利き腕の一本もへし折ってやるのもいいな。くっくっく。
「何がそんなにおかしいんだい?」
 突然、言葉をかけられ、笑いを浮かべたまま顔を上げたヘンリーは、驚きのあまり椅子から落ちそうになった。
 先ほどまで離れた席に座っていた禿頭の中年男がいつの間にか隣の席に腰を移していた。こちらに向けた下卑た赤ら顔の持ち主は誰あろう、ノーマンの現秘書、アラン・ベネットだった。
「いいことがあったらしいね兄さん。俺にもおすそ分けしてくれんかね」
 すでにかなり飲んでいるらしく、焦点の定まらない目はいかにも気持ち良さげだ。アランはまるで酒の飲み方を知らない若者に大人のたしなみを指南しようとでもいうように膝を寄せてきた。
 どうやらヘンリーが同じ社の人間だとは気づいていないらしい。それもそうだ、いかに売り出し中の若き販売部長といえど大勢いる社員の中のひとりなのだ。たとえ知っていたとしても暗い店内だ。容易に判別はつくまい。
「ええ、じつは今日、上司にほめられたんですよ」
 彼は当たり障りのない返事をした。
「そうかい、そりゃ良かった。君は上司に恵まれたんだな。俺なんぞ不遇なもんさ。直属の上司が社長サマでね。俺より一回り年下のキレものだ。コイツがまた絵に描いたような冷血漢でな。ヘマしないように緊張しっぱなしだ。肩が凝るったらないぜ。ハハハ」
 ヘンリーは黙ってうなずいた。
「アイツの父親とは長いつきあいでな。頼まれてアイツがまだ小僧ッ子の頃から経営のイロハを叩き込んでやったのは俺なんだよ」
 アランはワイングラスをぐいっと傾けた。顔がさらに赤くなる。
「あと三年って約束だが、そう簡単にこの地位を手放すもんか。魅力的な地位と収入だからな。まあ今後十年は食らいついてるつもりさ。それでスコットランドに土地を買って、悠々自適の老後を送らせてもらう計画よ」
 ふーっと吐く息にさえ色が見えるようだ。しかしヘンリーはすっかり酔いが醒めてしまった。
「さてと。夜更かしはこのくらいにしておくか。あの若造に酒臭いと文句をつけられたくないしな。じゃあ君、お先に失礼するよ。ここは私におごらせてくれ」
「……ありがとうございます」
 アラン・ベネットは店を出ていった。
 ヘンリーはしばらく扉を見つめていた。いや、にらんでいたというべきか。
 彼は自分の計画に対する自信が揺らぐのを感じた。三年と思っていたのが十年。見えていたゴールが急速に離れて行く気がした。
 自分は間違っていたのだろうか。何年もかけて奴の喉元に迫り、奴の絶頂の瞬間に息の根を止めてやろうという考え方は悠長すぎたのだろうか。

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