We're alive
No.9

ロンドン 5

 ヘンリーは学校を辞めた。未払い分の姉の治療費を工面しなければならなかったし、なにより当面の生活費がなかったのだ。学校側は奨学金の供与を勧めてくれたが、必要とする額にはほど遠く、すっぱりとあきらめた。
 ヘンリーと姉は、酒場街の裏に部屋を借りて、ささやかな生活を始めた。ヘンリーは朝から深夜まで身を粉にして働いた。姉もそんな弟を支えるために、懇意になった向かいのバーのマダムから電動ミシンを譲ってもらい、仕立て直しの仕事を再開した。
 日々の忙しさや、たまっていく疲労感からつい心がくじけそうになったが、二人は互いに励まし合って、父母の汚名をどうやってそそぐかを毎晩話し合った。
 両親の遺体、遺骨は依然行方不明のままなのだ。しかし彼らには探し出す手だてがなかった。
 ヘンリーは仕事の合間を見つけては、ロンドン警視庁(スコットランドヤード)に出向き、話を聞いてくれる刑事を捜した。門前払いされることもしばしばだったが、彼は根気よく日参した。

 ある日の昼下がり、いつものようにがっくり肩を落として警視庁を後にしたヘンリーは、後ろから声をかけられた。振り返ると灰色のトレンチコートに身を包んだ男が小走りに近寄ってくる。目つきの鋭い長身の若い男はメイスンと名乗り、電話番をしていたらたったいま“マクファーソン”と縫い取りのある上着を着た遺体が発見されたという連絡があったとヘンリーに告げた。
 メイスンはこれから現場に向かうが、今なら車に同乗させてやろうと言ってくれた。ヘンリーは姉に連絡を取りたかったが、今の自宅には電話がない。あきらめてメイスンが回してきた車の後部座席に乗り込んだ。

 連れてこられたのは、郊外の工場跡地だった。むき出しになった鉄骨に浮いたさびが、工場が使われなくなって久しいことを物語っていた。
「父の……遺体はどこですか?」
 車が止まると同時に飛び出したヘンリーは、あたりの異様な静けさにとまどいながらメイスンに問いかけた。
「こちらですよ」
 その声には異様な響きがこもっていた。不審に思って振り返ろうとしたヘンリーは、後頭部に激しい痛みを感じると、そのまま意識を失った。

 ここは……?
 ヘンリーは暗闇の中で目を開いた。と同時に激しい嘔吐感に見舞われた。しばらくのたうち回ったあと、彼は自分がだまされておびき出され、この場所に捨てられたのだと悟った。
 甘かった。奴らはヘンリーの動向から目を離してはいなかったのだ。ヤードで真実を訴えようとするヘンリーはひどく厄介な存在だったのだ。
 おそらくメイスンと名乗った男は刑事ではない。いま考えれば一人で出てきたのも怪しいし、車も警察車らしくなかった。
 ヘンリーはごつごつした廃材の上に起き上がった。まだ後頭部がじんじんと痛む。体の至るところが悲鳴をあげている。
 見上げるとはるか上に工場の天井があり、その手前に穴の縁が丸く見えた。彼は深い穴の底にいたのだ。うっすらと赤く染まって見えるのは、夕暮れが近づいている証拠だ。
 目を足下に転じると、大きな緩衝材が横たわっていた。ああこれが落下の衝撃を和らげてくれたんだ。ヘンリーは幸運を神に感謝した。
 急ごう。こんなところで夜を過ごすわけにはいかない。姉さんが心配する。
 さいわい、即席の梯子を作るのに材料は事欠かなかった。長い木組みに、拾った木切れや鉄骨の破片をひもでくくりつけ、側壁に立てかけた。登りきるには短かったが、三度目のジャンプでどうにか穴の縁に手が届いた。
 工場の床面に身を横たえたとき、陽はすでに暮れていた。息が整うのを待って彼は暗い工場を後にした。
 明かりはどこにもなく、人の気配はさらになかった。時たま雲間から顔をのぞかせる月の明かりは、周囲に点在する廃墟を、まるで墓石のように浮かび上がらせるばかりだった。天文マニアなら月の位置から方向ぐらい割り出せるんだろうが。
 これでは右も左も判らない。いや北も南も、だ。
 そのとき夜空を移動する光を発見した。飛行機だ。どうやら着陸モードらしい。彼は光を目で追いながら頭の中で地図を広げた。
 判った、あっちだ! 叫ぶと同時にヘンリーは駆け出していた。
 負けるもんか。奴らの思いどおりにはさせないぞ。
 夜のアスファルトの上で、足音だけがこだました。

 一番列車が動き出す頃、地下鉄の駅を見つけ、泥のように疲れた体を、客のまばらな車両の座席に横たえた。
 地獄からの生還だ。彼は仲睦まじい家族の写真の載った車内ポスターをながめながらつぶやいた。
 しかし本当の地獄はこれからだった。

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