ねっとりと生ぬるい空気が鼻腔に侵入してくる。 異常な湿度の高さが、ともすれば思考を混乱に導こうとする。 いかん……いかん。 彼は冷静さを取り戻すべく、頭痛の去らない頭を軽く左右に振った。 ──思い出してみよう。何があったのか。 まずは記憶のチェックだ。まさか頭を打って記憶喪失になったわけではあるまい。 自分は──そうだ、船に乗っていた。 川をさかのぼる定期便に乗船していたのだ。 さほど大きくない木造船。 時刻は昼下がり、船長が軽いパーティーのつもりで、乗客たちに一杯ずつ酒を振る舞った。 非常に美味だったのを覚えている。お代わりがほしかったくらいだ。確か午後二時を回った頃だったろうか。 だが船長の心づくしは裏目に出たのだ。我慢できない船員たちが、船長の目を盗んでこっそり飲んでいるのを目撃した。意見するのも何だから、 見て見ぬ振りをしていたのだが、彼らは酔い潰れてしまったようだ。 最近の異常気象は、このあたりにとてつもない量の雨を降らせたのだという。そのため川の水かさが増えて、森が流されたり、新たな川ができたりという事態が例年以上に発生していたらしい。 船で川を行くのに、最悪の時期だったといえる。 だが自分 にとっては初めての土地だったし、そんな危険が潜んでいようとは、予想だにしていなかった。 太陽がかなり傾いた頃、大きな衝撃があり、船は暗礁に乗り上げた。水没した樹木に引っかかったのかもしれない。見張り役の船員が、肝心の時に酔って使いものにならなかったせいだ。 船体はいとも簡単にひっくり返った。デッキで涼んでいた乗客たちは次々と川に叩き落とされた。 私は椅子から転げ落ちたが、かろうじて転落をまぬがれて……。 待てよ。 船が傾く前、私は誰かと会話を交わしていた。 非常に重要な会話を──。 脇腹に殴られたような鈍痛が走った。 顔をしかめながら水面を見ると、四角いものが月明かりを鈍く照り返しながら流れていった。 見覚えがある。定期船のデッキチェアだ。 そうか、転覆した船の落下物が流されているのだ。 デッキチェア程度でもこの流れに乗れば、凶器になる。げんに脇腹はまだジンジンしている。 思い出した。目を覚ましたときも背中に衝撃を感じたが、あれも荷物か何かがぶつかったのに違いない。 これからも何が流れてくるか判ったもんじゃないぞ。物によっては、樹から振り落とされる恐れがある。 今や“命綱”とも言えるこの樹。直径わずか三十センチほどだ。見上げると月の光に照り映える雲が、その部分だけ茂った葉によって黒く切り取られている。その手前に二股に分かれた幹が見える。決して大きな樹木ではないが、あそこまで登れば水に浸からなくて済みそうだ。 彼は突き出ている枝に手足を掛けながら、気力を振り絞って登っていった。 |