エピソード2
再現屋、呪いの館の謎に挑む

【22】 志乃の作戦




 いつの間にか寝込んでいたらしい。膝をくすぐられて目が覚めた。志乃が人差し指で円を描いていたのだ。
 壁の掛け時計が指す時刻は、午前三時半。
「まだ夜中じゃないか……ゲッ」
 そこでようやく異常に気づいた。志乃の髪の色が黒かったのだ。
「しっ、静かに」
 志乃は唇に小指をあてると、手を引いてオレをソファの陰へと連れて行った。
「おい、その髪、いつ染めた?」
「ウィッグですー」と髪の毛を持ち上げて見せる。確かに下は金髪のままだ。「念のため、商売道具一式は持ってきててん」
「かぶり物かよ」まったく、びっくりさせてくれる。
 志乃は声を落とし、
「これから事務室に行って、タカモリさんにインタビューしよ」
 彼女はずっと隆盛のことをタカモリと呼び続けている。
「マネージャーに?」
「そう」
「こんな時間に?」
「そう」
「なまみさんにしたかったんじゃないのか?」
 志乃がすっと指さす。なまみさんはソファにもたれてうたた寝中だった。こんな状況ではアイドルも一般人もないな。同じ難破船に乗った仲間だ……それでも彼女がお姫様であることは間違いないが。
「アイドルはあと。ショーをインとホイッスルは……えっと」
《将を射んと欲すれば先ず馬を射よ》と言いたいらしい。
 志乃は器用に手を動かし、前髪を額の上に垂らした。
「──まさか、お前」

 ノックして事務所のドアを開けると、隆盛はひとり黙々と書類に目を通していた。超多忙アイドルのマネージャーともなると、昼も夜もない毎日に違いない。応接室に固まろうという呼びかけにも頑として応じず、自分の領土を守っている。マネージャーは気力と体力がないと続かないんだろうな。
「どうしました」
「あのー、なまみさんが呼んでるんですけど」
 もちろんウソだ。志乃の指示である。
 隆盛は書類を机に置くと腰を上げた。
「彼女は応接室ですね?」
「それが」目線をさりげなく上げてみせ、「二階の展示室に来てほしいとか」
「二階に?」
 隆盛は眉をひそめたが、分かりましたと言って事務室を出ると、すぐに階段を昇っていった。

「なまみさん、どちらですか?」
「──こっちです」
 隆盛は展示室の入口ゲートをくぐり、奥へと歩を進めた。もちろん明かりはない。避難路を示す非常灯だけで、ヘタに歩くと展示物にぶつかりそうだ。
 見えないなまみさんに、隆盛は声だけを頼りに近づいていく。
「緊急の御用事でしょうか」
「──幽霊騒ぎの件です」
 隆盛は足を止めた。
 ……勘づかれたが?
 オレは彼の後ろを、足音が立たないよう、裸足になって尾行していた。夏とはいえフローリングの床はちと冷たい。そして手にはビデオカメラ。映像は無理でも録音は可能だ。
 隆盛が話している相手。お気づきだろう、なまみさんではなく、志乃だ。彼女が得意の演技でなまみさんのフリをしているのだ。
 マネージャーを騙せるわけがない。オレは反対したが、「バレたら退屈しのぎの冗談でしたと謝るだけ」と志乃は軽く言ってのけた。
 彼女は何かをつかんでいるらしい。
 なまみさんにインタビューを求めた動機もそれだった。なまみさんには後日まわしにされたので、それなら、と隆盛に照準を変えたのだ。
『あの人にも確認してみたいねん』
 志乃はそれだけしか口にせず、詳しく聞く暇もないまま、こうして本番に突入した。
「騒ぎの件、ですか」
 隆盛の表情は皆目見えない。
 オレはハラハラしながら、耳に神経を集中させた。今にも志乃だとバレるんじゃないか?
「──一昨日の夜、渡り廊下でガラスの外に幽霊が現れる直前、私はあなたに何と言ったか覚えてますか?」
 長めのセリフだ。
 驚いた。まるでなまみさんがしゃべってるみたいで、間の取り方や言葉の抑揚がそっくりだ。完璧じゃないにしろ、広い展示室の中だ。多少はごまかせる。
 あらためて、志乃の才能に恐れ入った。
 それにしても気になるのはセリフの内容である。さっぱり意味が分からない。あの時、渡り廊下には隆盛はいなかった。町長らの相手をして、A館の一階に残っていたはずだ。
 目が暗さに慣れてきた。非常灯の光が、志乃と隆盛の輪郭を赤く染めていた。
「覚えてますが……」
 通じてる!
「──言ってみて」
「え……」
 会話は謎を秘めたまま続いている。どういうことだ。
 何か見落としたことがあるのか。オレが気づかず、志乃が気づいたこと……志乃が気づいた……。
 そうだ。ガラス越しの幽霊が消えた直後。
 志乃は廊下でなまみさんの携帯電話を拾った。
 オレの思考に、隆盛の声がかぶさった。
「……あなたはこう言いました。『廊下に到着した。今よ!』と」
 ガツンと頭を殴られた思いがした。
 心の中にかかっていた靄が、ほんの一部だが、さーっと晴れた心地がした。
「──そう、それであなたは指示どおりに動いてくれました」
 志乃はなまみさんになりきっている。うっかりするとオレまで騙されそうだ。姿がはっきり見えないからこそ実行できた作戦だ。
「もちろんです。あなたの御希望を実現するため、最大限努力するのが私の役割ですから」
「──でもこれで良かったのかしら。私は大変なことをしてしまったんじゃないかしら。そう考えると気が休まらなくって」
「しかたがなかったのです。こうでもしないと、あなたは永遠にこの美術館の館長を辞めることはできないでしょうから」
 館長を辞める? また意味不明だ。館長就任は彼女の意思だったはず。
「それに」隆盛は続ける。「昨夜のことだって、あなたのがんばりには舌を巻いていたんですから」
 昨夜?
「──本当に。着ぐるみ姿でみなさんを廊下まで誘導するのには、正直とても骨が折れました」
 なにーっ! 二度目のショックにオレは卒倒しそうになった。
 あの《綿ボコリ》の正体はなまみさんだったというのか、志乃!
「──でも、ゲストにひどい怪我を与えてしまいました」
「何をおっしゃる!」隆盛の声に動揺めいた感情が混じった。「誰かが怪我すれば、それだけ説得力が増すと主張されたのは、あなたではないですか、なまみ様」
 なまみ・サマ???
 突然、彼らを包む空気が変わった。
 隆盛は、まるでなまみさんの奴隷にでも成り下がったような口振りになっていた。この二日間眺めてきた二人の関係からすると、かなり違和感を感じる。
 志乃が扮するなまみさんはノーリアクションだ。すると隆盛が高ぶった声で、
「なまみサマ? ──すみません、お気を悪くされたら謝ります。お許しください」
 次の瞬間、ドンと大きな物音がし、何か硬い物の割れる音がした。
 驚きのあまり息を飲んでいると、さらに耳を疑うようなセリフが展示室に響き渡った。
「あんたねぇーっ、あたしに口答えするつもりぃーーーっ!」