エピソード2
再現屋、呪いの館の謎に挑む

【19】 木星の攻撃




 日村は缶に残っていたビールを一気にあおると、クソ幽霊め、叩き潰すなどと喚きながら応接室を出ていった。
「再現屋さん、日村さんを行かせないで!」と、なまみさん。
「菊地です……分かりました」
 オレは急いで後を追った。
 廊下に出る。足音はもうエントランスの階段を昇っていた。あの青年、アルコールが入ると身体にターボがかかるのか?
 追いつくべく、二段飛ばしで駆け上がる。行く手に日村の広い背中が見えた。LサイズのTシャツがはち切れそうだった。
 そこはもうA館展示室の入口だ。ここへ来てから三度目の入場になる。
「日村くん!」
 ダメ元で名前を呼んでみた。するとオレの声が呪文になったのか、日村の足がぴたりと止まった。
 ホッとして近づいていく。と、
「来る……」
「えっ?」
 日村は前方を指さした。展示スペースへの入口がそこにあり、その先は非常灯だけの、ほぼ真っ暗闇だ。
 ゴロゴロゴロ。
 瞬間、恐怖のメーターが跳ね上がった。雷か?
 いや違う。これは床の上を転がる音だ。いったい何だ?
 恐怖に逃げることもまばたきも忘れたオレたちの視界に、それは現れた。
 球体。
 それもオレの肩くらいまである。それがこちらへと接近してくる。刹那、映画『レイダース 失われた《聖櫃》』の冒頭シーンが頭をよぎった。
「に、逃げよう!」
 しかし叫んだ時には遅かった。あわてて走り出した二人を、球体はボーリングのピンのように軽く弾き飛ばした。
 悪いことに階段の端だった。
「うわーーーっ」
 オレたちはぐるぐるとまわりながら階段を転げ落ちていった。

 我に返ると元の応接室のソファに寝かされていた。頭の上に濡れたタオルが乗せられている。
「オレ、別に熱はないけど」
「ゴメン、なんとなくそのほうが絵になるかなって」
 志乃が言う。意味が分からん。起き上がると、対岸で同じく横たわっている日村の姿があった。
「この坊や、トシのクッション代わりになってくれたんよ」
「やっちまいました」日村が左脚を上げた。包帯がぐるぐるに巻かれている。「まさか、あんな攻撃を受けるなんて」
 攻撃? オレはソファを降り、身体の具合を確かめた。幸運にも怪我はないようだ。日村に感謝しよう。
「あの球体は何だったんだ」
 すると部屋の隅にいたなまみさんが、すみませんと謝って、
「A館に展示中の作品で《木星》というタイトルのオブジェです」
「材質は岩石?」
「木です。木製だから《木星》というシャレだそうです」
 笑えやしない。さっきの恐怖がまざまざとよみがえる。
 後で確認させてもらうと、大赤斑(木星表面の目玉のような渦)に当たる模様に年輪の丸い部分がうまく使われていた。作品としてはよくできているんだろうが──。
「かなり重そうでしたけど、どうしてあんなものが転がってきたんでしょう?」
「分かりません……展示場所はフロアの中央で、何かの拍子に台座から落ちて、そのまま転がってきたとしか……」
「今までにこんなことは?」
「一度もありません」
 背筋に冷たいものが走る。やはりあれも呪いなのか。
「聞きたくない、そんな話」飯山は頭を掻きむしると、「町長、もうたくさんです。帰りましょう。じゃないと私たちも呪い殺されますよ!」
「まだ誰も殺されとらん」
 ブルドッグ顔は、それでも青ざめていた。
「殺されてからじゃ遅いんです」
「いい加減にせい! 呪いなんてものは存在せん」
「じゃあ、昨日からの出来事はどう説明するんですか? 窓に張りつく幽霊や《綿ボコリ》妖怪、渡り廊下のガラスを破壊した黒い怪物、全部目の錯覚ですか? 木製の《木星》の襲撃だって偶然ですか? 私は信じませんよ!」
「落ち着かんかい。いい年齢をして」
 会話が途切れた。飯山は荒い息遣いのままソファに座った。そして子供のように膝を抱えると腕の中に頭を埋めた。

 夕食は静かだった。誰も余計な言葉を発せず、黙々と料理を口に運んだ。
 食後、宿泊に割り当てられた部屋に戻る者もいなかった。なんとなく一人になるのが怖かったのだ。
 とはいえ、集まってもすることがない。テレビも映らない。携帯電話も再びつながらなくなっていた。
 もう一度館内を調査しようなどという声も出なかった。倦怠と疲労。ただそれだけだった。
 そんな中、なまみさんと隆盛だけは事務室との間を頻繁に往復していた。ゲストのために飲み物や軽食を用意したり、雑誌や毛布を運んだりと実にかいがいしい。
 手伝うことがあればとなまみさんに申し出たが、気にしないでくださいと丁重に断られた。疲れているのだろう、化粧が濃くなっている。
 志乃が意外な提案をした。
「彼女にインタビューしてみようよ」
「こんな時にか?」
「暇つぶしにもなるやん」
 ところがこの提案も断られた。事件が一段落して後日改めて、と隆盛は言うのだ。
 オレは理解を示したが志乃は不満そうだった。

 午後九時。動いているのは時計の針だけ。
 横になって寝息を立てている者の他は、じっと座ってそれぞれのやり方で過ごしていた。こうしている限り、十時間後にはもう少しマシな朝が迎えられる。そんな空気が漂っていた。
 しかし、そんな希望的観測は、簡単に破られた。
 ドンッ。
 今度のノックに、前触れはなかった。