エピソード2
再現屋、呪いの館の謎に挑む

【6】 アイドル登場




 国民的アイドルの綾澤なまみ。
 彼女が目の前にいる。これは現実か?
 綾澤なまみはコップの載った盆を両手で捧げたまま、呆然と立ち尽くしている。前髪が垂れているので表情は読み取れないが、彼女に気づいた志乃の言葉に驚いて、大いに戸惑っているようにも見受けられる。あるいは服装のせいで気づかれないと思っていたのかもしれない。
 しかし戸惑うのは一般庶民のこちらのほうだ。
 オレは何と挨拶していいか分からず、開きかけた口をアワアワと動かしていると、志乃はあろうことか彼女の両肩を鷲掴みにし、
「ホンマもんの綾澤なまみやんねー? めっさウレシー! テレビで見るよりカワイイやん。スタイルもええねー」
 そんなことを言いつつ、上から下へと舐めるように視線を動かす。
「オイ、失礼だろ」
 たまらず背中を小突くと、さすがの志乃も、
「おっとっと、あたし調子に乗り過ぎ?」と言って舌を出し、「ごめんなー」と綾澤なまみに対して、へらへらと笑ってみせた。
「タメ口はやめろ。こちらはオレたちのクライアント様なんだぞ」
 しかもVIPの有名芸能人だ。粗相があっては、今後のオレたちの仕事にも差し支えるかもしれない。
「いえ、いいんです。……ファンの皆様に喜んでもらうことが、アイドルとしての務めですから」
 綾澤なまみはそう言うと、深々と頭を下げ、そして初めてオレに顔を向けてくれた。
 カ……カワイイ。
 身長は155くらいか。濡れ羽色のロングヘアーを後ろで束ね、くっきりとした二重まぶたの大きな眼は憂いを秘め、通った鼻筋と形のいい唇が誘惑するように迫ってくる──。
 いや迫ってくると感じたのは、オレのうぬぼれだ。願望だ。
 実際の彼女は申し訳なさそうに眉を下げると、
「あのお……お二人が再現屋さんなんですね?」
 オレは逸る心のままに、志乃の前に強引に出た。
「そ、そうです。私が制作担当の菊地俊郎です。で、こっちが、ええっと、プロデューサーの──」
「島津志乃でーす。メールいただき、ありがとうございまーす」
「いえいえ、こちらこそこんな田舎まで来ていただいて」
「田舎の町長にも紹介してもらえまへんか」
 横から声が割り込んできた。禿頭のおっさんである。
「これは町長さん、御無沙汰しております。お元気でしたか」
「ハッハッハ。アンタにお会いすることが元気の素ですわ。できれば毎日でもお会いしたいくらいや。毎日でもな」
 綾澤なまみは、あらためてオレたちを町長に紹介した。
「ほう、映像屋さんでっか」
 今日の志乃は、ダークグレーのスーツでキメている。町長らを前にしても恥ずかしくない出で立ちだ。昨夜さんざんTPOを言い含めておいたのが効いた。当然オレも一張羅のスーツに久しぶりに手足を通した。
「再現屋と名乗らせてもらってます」と如才なく言い添える。
「その映像屋さんが」町長はオレを無視して続ける。「ここでアンタのイメージビデオとかを撮りはるんでっかいな? それやったら大賛成や。美術館の宣伝にもなるし」
「いえ、そうではないんです」綾澤なまみは少し言い淀むと、「後ほど説明させていただきますので、ひとまずご着席ください」
 促されてオレたちは元の席に腰をおろした。綾澤なまみは一礼して退出すると、両腕にプロジェクタらしきものを抱えて戻ってきた。その後ろから、マネージャーの隆盛が回転巻込み式のスクリーンと持って現れた。
「他に職員、おれへんみたいやね」
 綾澤なまみたちは机を寄せたり、プロジェクタのスイッチを入れたり、てきぱきと会合の準備を進めていく。やがてセッティングが完了したらしく、隆盛は脇に下がり、綾澤なまみは壁の時計をちらと見て──時刻は午後三時を指していた──から、スクリーンの前でお辞儀した。
「皆様には、あの、お忙しい中をお集まりいただき、心より感謝申し上げます。……まだ到着していないかたもおられますが、時間が来ましたので……始めさせていただきます。本日は……私ども以外の職員はおりませんので……その、何かと不都合をおかけするとは思いますが……どうかお許しください」
 DVDで見た彼女は、ステージの上を軽やかに駆け回り、最初から最後まで笑顔を絶やさず、徹底的にファンサービスに努める、天性のアイドルだった。
 同じ人物が、いま目の前で笑顔もなく、ぎこちない喋り方で語っている。緊張感すら漂わせて。
 腑に落ちないな。
 もちろん、アイドルとはいえ一人の人間であるから、常に芸能人としてのテンションで振る舞っていられるわけじゃなかろう。それにしても、彼女の目線の落ち着きのなさ、顔色の蒼さは奇妙だ。まるで──そう、まるで不祥事に対する釈明会見を見ているような。
「さて、本日お越しいただいた件についてですが……ああ」
 綾澤なまみは言葉を途切らせると、突然膝が砕けたようにバランスを崩した。
 考えるより先に椅子を蹴っていた。だが隆盛のほうが同じテーブルにいた分、利があり、オレは彼の肩に弾かれ、部屋の隅っこまで転がっていった。ゴンという激突音とともに目の中に火花が散った。
「何をするの!」
 悲鳴のような綾澤なまみの声が響いた。続いてパタパタと近づくスリッパの足音。そして持ち上がるオレの頭と後頭部に感じる手の平の温もり。
 瞼を開くと、とんでもない近距離に、アイドルの顔のドアップが。
「ごめんなさい。乱暴なことをさせて」
 死んでもいい。本気で思った。
 トップアイドルが、オレを気遣ってくれている。
 はかなげな眼差しが、いまオレだけに注がれている!
「──可憐だ」
 つい、某有名アニメ映画のセリフを吐いてしまった。宮崎監督ゴメンナサイ。
「立てますか?」
 泣くような声で優しく問いかけてくれる。おまけにいいにおいも。あっ、垂れた前髪がオレの額に──。
 身体が浮いた。えっ?
 よく見ると、オレを抱きかかえているのは隆盛だった。ウソッ。どの時点で入れ替わったんだ? あの前髪の感触はどっちの──。
 アイドルは向こうで志乃に対して詫び言を繰り返していた。志乃は、おじいちゃんも匙を投げるほどのアホやから、これ以上頭はワルならんよ、などとほざいている。
「降ろせ、降ろしてくれ」
「本当に大丈夫ですか? 血は出ていないようですが」
 オレは隆盛の両腕の中から抜け出した。これ以上カッコワルいところを見せられるかってんだ。
 すみませんでしたと謝罪する隆盛を尻目に席に戻る。綾澤なまみの視線に対しては、全身をセンサーと化す。オレはすっかり彼女のトリコになってしまったようだ。
「アホたれ」
 志乃に後頭部をハタかれる。
「イテッ。何すんだ」
「慣れんことはせんとき。アンタは俳優やのーて、あくまでスタッフなんやから」
 知ってるわい。血も涙もなければ情けも機微もない言葉だ。綾澤なまみの爪の垢でも煎じて飲め。あ、そんなのがあったらオレが飲みたいかも。

 ドタバタがあったが、全員が元の席に着き、綾澤なまみは、自分が貧血気味に加えて寝不足であることを明かした。
 日を変えてもええよと志乃は提案したが、綾澤なまみは首を振り、
「急いでお話ししたいことがありますので」
と気になることを言った。
 本題に入る前に、彼女は出席者を正式に紹介した。
 禿頭の男は、Y町町長の田辺哲(たなべ・てつ)。
 付き添っているのは町議の飯山喜三郎(いいやま・きさぶろう)。
 ブルドッグのような面構えでオレの首くらいの背丈の町長と、派手な顔作りで四十台前半と思われる町議。二人並べると悪徳金貸しとその秘書といった印象である。
「そちらはなかなかの別嬪さんだが、女優さんか何かかね?」
 町長、セクハラまがいの言葉を吐きやがる。しかし志乃は気にする様子もなく、ありがとうございますと笑顔を返し、
「今は映像制作のスタッフですが、以前は東京で舞台女優もやっておりましたのよ。ホホホホホ」
「お名前は聞いたことがないけどな」
「役者さんの数は町長さんより多いですからね」
 冷や汗が出る。
 その時、「女優……」というつぶやきがかすかに聞こえた。顔を上げると、綾澤なまみと視線がぶつかった。
「あ、いえ、本物の女優さんなんだなーって思って……えー、それで今回、再現屋さんにお願いしたいと思っていますのは」
 いよいよ本題の本題。核心である。
 綾澤なまみのプロモーションクリップでないことはさっき聞いた。となると、美術館の広報ビデオだろうか。
「──幽霊です」