「綾澤(あやさわ)って、あの綾澤なまみ、か?」
「そう」
志乃はすまし顔で、こっくりと頷いた。
綾澤なまみ。彼女の名を知らない人間は、この国にはいないだろう。デビュー以来、トップアイドルとして第一線を走ってきた彼女は、他に例を見ないその特異な売れかたによって、若者のみならず、年輩の男性女性からも驚異的に支持された。
オレは今一度、メールに目を落とした。
彼女の名前の前に書かれた「綾澤美術館館長」という肩書き。
思い出した。確か二年ほど前だったろうか。我がN県南部にある、とある美術館が経営不振で閉館の危機に陥った時、やはりN県出身だった綾澤なまみが土地ごと購入し、館長として名を冠することで危地を脱したと聞いたことがある。
メールの送り主は、彼女のマネージャーらしい。隆盛(たかもり)というのか。犬を連れた恰幅のいい和装の男というイメージが心に浮かぶ。
「打ち合わせの日取りやけど、向こうさんは、今度の土曜日が都合ええっていうんで、OKしといたよ」
「ちょっと待った。週末はレンタルビデオの書き入れ時だ。そう簡単には休めないぞ」
「どアホ!」
志乃は叫ぶと、両手でテーブルをドンと叩いた。両脇の客が驚いて身をすくませる。
「いきなり、何だよ」
「トシにとって、バイト先の事情と、ビデオ撮影の仕事のどっちが大事やのん?」
「そんな……こと、言われなくっても分かってる」
「いやいや、アンタの性格や。安いバイト代でも、生活できるんやったら別にええかなんて、安心してしもたんとちゃう? それに、いざとなったら実家に泣きつこうなんて考えてへん?」
「シーッ、他人に聞かれるじゃないか。体裁の悪い」
しかし志乃は一切気にせず、ニヤリと笑うと、
「残念でした。アンタのおじいちゃんはすべてお見通し。身内は元より、お文さんにまで『金の無心に来たら問答無用で追い払え』って厳命してはったからね」
「……いやに詳しいな。じいちゃんと会ったのか?」
言うと、志乃は途端に相好を崩した。
「だって、おじいちゃんさー、作り立ての天使のプディング≠好きなだけ食べさせてくれたし、あたしが『家族にも食べさせたいなー』なんて呟いたら、すぐに詰め合わせセットを送ってきてくれはったもん。ええ人やわー」
しっかり買収されてるじゃないか、クソッ。
「オレだって、映画を撮る野望を忘れたわけじゃない。再現屋はその第一歩だ。ただ、あの店長にどう言い訳すればいいか……」
情けない。つい語尾が小声になってしまう。だが、あの大声でネチネチと嫌みを言われるのはたまったもんじゃないんだ。
「それにしても、ホームページ作って、こんなにすぐに反応あるなんて、ツイてると思わへん?」
両手を頭に当て、ニコニコと天井を仰ぐ志乃。合わせてオレも気持ちを入れ替える。
「まさか再現屋の初仕事が、有名アイドルとは想像もしてなかったよ。でも、どうして無名で実績もないウチに依頼してきたんだろうか?」
「それは何となく分かるわ」志乃は氷の音を鳴らしながらコップの水を飲むと、「理由は“綾澤なまみ”やからとちゃう?」
「──そうか」
一六歳でデビューした綾澤なまみは、「貧乏アイドル」というキャッチコピーで一躍世間の耳目を集めた。
そもそも彼女の人生は、捨て子という悲惨な状況からスタートした。施設ではいじめを受け、学校に上がってからも極貧ゆえに制服や文房具を揃えるにも苦労し、放課後は寝る間を惜しんでアルバイトに精を出したという。
そんな彼女が芸能界入りのきっかけになったのは、あるスナックで年齢を偽って働いていた時のことだった。見栄えのいい彼女に、酔った客がむりやり歌わせたところ、予想外の美声に店内の客たちの酔いが一瞬で醒めたという。それからたびたび歌っているところを、今のマネージャーにスカウトされたらしい。
綾澤なまみというのは、芸名だ。
姓は彼女が拾われた場所「綾沢町」から取ったもので、いつか自分を捨てた両親が会いにきてくれることを願って自ら付けたのだ。
下の名は、往年の映画『名もなく貧しく美しく』(高峰秀子主演)のタイトルから。当初は「なま美」としていたが、いつしかファンの間に定着した平仮名オンリーの表記が広まったこともあり、「なまみ」を正式なものとした。
綾澤なまみは、デビューするやアッという間にトップアイドルに登り詰めた。出す曲すべてがミリオンヒット。三ヵ月が過ぎた頃には、テレビで彼女を見ない日はないまでになっていた。
彼女の才能は歌に留まらなかった。ファンサービスで端役出演したテレビドラマは高視聴率を叩き出し、すぐさま、彼女主演の映画製作が発表された。その後、映画はシリーズ化され、彼女は映画界でもドル箱スターになったのだった。
もっとも、その中のただの一本もオレは観たことがないけれど。
『私はずっと貧乏な生活を送ってきたので、お金の使い方がよく分かりません。お金を持っていることが不安でさえあります。他の皆さんのように、好きな服を買ったり、貯金したりということがどうしてもできないのです。
いつも応援してくださる皆さんのおかげで、私のCDやライブDVDをたくさん世に出すことができ、お金もたくさんいただきました。でもそんな大金を私ひとりが持っていてもしかたがありません。だから、すべて皆さんに還元させていただこうと思います』
ファーストコンサートツアーの最終日、綾澤なまみは武道館のステージで、こんなメッセージを発表した。
そして宣言どおり、収益のほぼ全額を、孤児たちの施設や、地震や台風などによる被災者、交通事故死者の遺族など「困っている人たち」に寄付したのだ。
以後、綾澤なまみは貧乏アイドルとして、今日まで絶大な人気を博し続けている。もちろんテレビ番組やファンの間ではそんな言葉は使わない。最近の時流に乗って「エコアイドル」というんだそうだ。
事実、彼女は衣装を三着しか持っていないらしい。住む場所も、所属プロダクション社長自宅の離れを間借りしているという。
以前、バラエティ番組に出演した時、ある芸人がからかい半分に貧乏合戦を挑んだところ、カップ麺の味の違いや、さらに美味しく食べる方法などを微細に渡って披露され、芸人は負けを認めざるを得なかったとか。
「デビューして今年で五年やねんて。五周年記念のコンサートが九月から始まるらしいわ」
以上の話は、オレの記憶一割に、芸能通の志乃による解説九割をまとめたものだ。
天下のアイドル綾澤なまみが、どうして無名のウチなんかに仕事を依頼してきたのか?
理由は「料金」以外、考えられない。
「急遽、ビデオを作らなあかんらしいんやけど、大口の寄付をしたばっかりで、大した予算を捻出でけへんらしいわ」
「そりゃ、がっかりだな」
一瞬、借家住まいから解放される夢を見たのに。
「ええやん。これで立派な仕事ができたら、最高の宣伝になるし」
もっともだ。そうなってもらわないと困る。
「しかしなあ、アイドルのイメージビデオなんて、型にはまったようなモンだろうが」
あえてエラそうな口振りで愚痴ってみる。すると志乃は首をプルプルと振り、
「どうも、そんなんやないみたい。メールでは、とにかく美術館に来てほしいの一点張りでね」
「綾澤美術館か──」
その時のオレたちは、美術館で身も凍るような恐怖体験をすることになるとは、想像すらもしていなかった。 |