じいちゃんは志乃ばあちゃんの投げかけた微笑みに縋(すが)るように膝を前に寄せた。あるいは最愛の妻に今一度触れてみたいと思ったのかもしれない。 しかしいち早く察した志乃は、煙がゆらぐような動作でふわりと立ち上がった。自分はこの世のものではないことを顕示するかのごとく。 「許すって、何をですか?」 志乃は問を発した。 「何をって……そりゃ……」 じいちゃんは言葉に詰まって、口をモグモグさせながら目を落とす。 いいぞ、その調子だ志乃。 昨日の打ち合わせの時、村木が一つだけ演技に注文をつけた。 『決して相手の間近に顔を寄せないように』。 裏返せば、じいちゃんに間合いを詰められないようにということ。志乃が距離をとったのは正解なのだ。村木によれば、特殊メイクといえど完璧ではない。志乃がどれほどばあちゃんにそっくりだとしても、四十も上の人間に化けるのだ。身内の人間を騙すのは絶対に不可能だという。まあ当然だろう。 オレは何本かのハリウッド映画を思い出した。前評判で特殊メイクの出来の良さが絶賛されていたのに、観に行ってがっかりしたことが幾度もある。「それは無理だろう」と苦笑したことも。世界のハリウッドだ。興醒(きょうざ)めするようなものは勘弁してほしい。 ファインダーの中で、じいちゃんが苦しそうに言葉を吐いた。 「わしらが……わしと子供らが諍う姿に、おまえが胸を痛めておったと」 じいちゃんは顔を上げると、目を剥かんばかりに志乃を凝視した。 「教えてくれ。レシピを持ち出したのはお前なのか?」 志乃の顔の上を走馬灯の光が乱舞する。演出したオレが言うのも何だが、この世のものとも思えない光景だ。 「はい。私が持ち出しました。今思えば浅はかな考えでしたが」 「それで……レシピをどうした? 本当に飲み込んでしもうたのか?」 「お恥ずかしい。聞かないでくださいな」 志乃は袖で顔を隠した。その様子に感極まったのか、じいちゃんの頬をつーっと涙が伝った。 オレも目頭も熱くなった。まさに長年連れ添った夫婦相和(あいわ)すの図。いい画だ……。 「忍、わしゃどうすればいいんじゃろう」 両手で顔を覆ったじいちゃんは、半泣きの声で志乃ばあちゃんに問いかけた。 「なあ、わしはこの先どうすれば……」 「あるじゃありませんか、あなたにしかできないことが」 志乃はそう答えながら、一歩前に出た。 「こだわりを捨て、これまでの経緯を忘れて、全部白紙に戻すのです。そして息子たちを信頼し、任せておあげなさい。あなたはあなたでこれまで通り“天使のプディング”をお作りになればよろしいのですよ」 遂に出た。いわば決めゼリフ。これにじいちゃんがウンと頷けば終演だ。舞台に幕が下りる。 「ダメじゃ」 ナニ? この期に及んでまだ言うか。 「ダメなんじゃよ、忍ぅ」 「どうしてですの?」 あくまで志乃はマイペースで訊ねる。 「あの頃、わしはヨーロッパを視察して回ったのはお前も覚えておろう」 「はい、三ヶ月ほど行かれましたね」 「そ、そうじゃ。あれほど長いこと家を空けたことはなかった。……そのせいで、わしは作り方をすっかり忘れてしもうたんじゃよ!」 |