“志乃ばあちゃん”は部屋に入ると、廊下にいた時と同じ動作で膝をつき、障子を閉めた。立ち上がる瞬間、腰を上げるのが辛いというように、一瞬表情が曇ったが、すぐに消えた。 そうだ。忍ばあちゃんは凛とした人だった。辛いときも、悲しいときも。 鷲村製菓の社長夫人として人前に出ることの多かった半生。ばあちゃんは常ににこやかに、かつ毅然とした態度で周囲の人々と接してきた。内にいては良き妻良き母として。病を得てからもそれは変わらなかった。裏では人知れず苦労も多かったろう。だが、ばあちゃんを知る人の話にも、現存するフィルムの中にも、そんな様子は皆無だ。時折苦しそうに心臓のあたりを押さえたり、階段の途中で大儀そうに息をつく以外は……。 「あなた」 眠るじいちゃんの枕元に正座した志乃ばあちゃんは、左手を伸ばすと布団の上からじいちゃんの体を揺すった。 しまった。起こす役はオレだった。元より役者の片割れが眠っていてはドラマにも何もなりはしない。オレの書いたシナリオだって、オレが脇から手を伸ばしてじいちゃんを揺り起こすところからスタートしているのだ。しかし……。 レンズの向こう側では既に“物語”は始まっていた。先から幕が上がっている。オレの入り込む余地はない。現に志乃だって、さっきからオレに一度も視線を寄越したりしてないじゃないか。 「あなた」 二度目の呼びかけに、ようやくじいちゃんは目を開いた。と同時にオレは走馬灯の第二スイッチを入れた。走馬灯の外筒(そとづつ)が静かに回転を始め、そこに描かれた淡い色彩が鈍い光によって四囲の壁に投影され動き出した。桃色、緑、青などさまざまな光が寝室をまるで別世界に塗り替える。 「誰だ……?」 「あなた、私ですよ」 「……忍、忍か?」 どうやら目覚めてくれたようだ。しかし本格的に覚醒されては困る。夢見心地のままでいてくれなくては。目の前にいるのが亡き妻だと認めてくれれば、これは……。 「これは夢なのか?」 そう、それでいい。 志乃ばあちゃんは、泳ぐような挙措で畳に両手を着くと、 「あなた、ご無沙汰しておりました。お元気そうで、忍も安心しました」 声までばあちゃんそっくりだ。顔が似ていると声まで似るとはよく聞くが、志乃のなりきり技術は声も含めたトータルなものなのだろう。流石だ。 突然じいちゃんがむっくりと起きあがった。布団の上に座り直すと両手を前につき、ばあちゃんに向かって深々と頭(こうべ)を垂れた。 「すまん忍! 許してくれ、わしが悪かった!」 驚いたオレは危うくカメラを落としそうになり、あわててグリップを握り直した。 オレの書いたシナリオでは、目覚めたじいちゃんがどんな反応を示すかは書かれていない。予測しにくい人だから当然といえば当然だが。 シナリオには志乃が口にすべき最低限の台詞しか書かなかった。後はその場のアドリブだ。 志乃は舞台女優の卵だった。舞台では時たま不測の事態が発生する。彼女にはその経験を大いに活かして、何が起きても切り抜けてほしい。 オレの身勝手な願望ではある。手抜き監督の誹りを受けても仕方ないな。 じいちゃんが首を上げた。志乃ばあちゃんの顔色を伺っているらしい。オレは音を立てないよう注意しながら、二人の表情が撮れる位置まで体を動かした。 志乃は小首を傾げただけで、じいちゃんの視線を正面から受け止めると、かすかに微笑んだ。 |