志乃は、よく判らない、と首を傾げた。オレは手帳の最後の書き込みページを示した。 『三月三十日 曇り空 風強し』 たったこれだけ。他の日は天気を記した後、その日にあったこと、思いついた句想などが書き込まれているというのに。 なぜならその日が、ばあちゃんの亡くなった日だから。この一行が、ばあちゃん最後の書なのだ。 「とにかく、じいちゃんに報告しないといけないな。ショックなことだけど」 「そうやね」 オレは蔵の側壁と平行に走る築地塀を眺めた。さっき見た猫の姿はどこにもなかった。 今夕は、帰省してから初めて妹夫婦と会う約束があるというので、志乃はじいちゃんの反応を気にしながらも、しぶしぶ帰っていった。 じいちゃんは陽がとっぷり暮れてから帰宅した。オレはじいちゃんが夕食を済ませた頃を見計らって、話を切りだした。 じいちゃんは腰を抜かさんばかりに驚いた。お文さんもじいちゃんが手にした手帳を覗き込むと「あれま」と叫んだきり絶句した。多々良さんも隣で口を開けたままフリーズしている。 「し、忍がレシピを……」 じいちゃんの双眸(そうぼう)が虚空を泳いだ。しかし次の瞬間、すっくと立ち上がると、 「多々良! 付いてこい!」 一声高く叫び着物の裾を翻すと、座布団を蹴って立ち上がった。そして廊下の障子を壊さんばかりに強く引き開け、裸足のまま庭に飛び降りた。 「旦那様、お待ちを! 文、懐中電灯だ」 「は、はいよ!」 じいちゃんは蔵を目指して一目散に駆けていく。七十歳の老人のどこにそんなパワーがと思うくらい、もの凄いスピードで駆けていく。 その後を、懐中電灯とじいちゃんの草履を持った多々良さんが追いかける。お文さんも駆ける。オレは電池式のランタンがあったのを思い出し、玄関脇の物置から持ち出すと、遅れて三人の後を追った。 蔵の前では、じいちゃんが「どこだ、どこだ」と腕を振りながら喚(わめ)いていた。 「おいこら、俊郎。隠し扉はどこじゃ? 早よ教えんかい」 苛立つ顔がオレを見据える。どうやら秘密の通路のことは本当に知らなかったようだ。 オレが石の扉を開くと「誰がこんなものを」というじいちゃんの呟きが聞こえた。 あわてて飛び込もうとするじいちゃんを抑え、まずはオレが先導して中に入った。 「ここから階段だからね。気をつけてよ」 「うるさい! 年寄り扱いするな」 オレは尻を叩かれながら、レシピ部屋に入った。後からじいちゃんと多々良さんが続く。 持ってきたランタンのスイッチを入れ、傍らの箪笥(たんす)の上に置くと、部屋が煌々(こうこう)と照り返った。 「旦那様、これを」 多々良さんが中央の葛籠を指さす。じいちゃんがその上に乗っている小箱に震える手を伸ばし、蓋を開けた。もちろんレシピは入っていない。 じいちゃんは小箱を掴んだまま、あらぬ方向を見上げた。 「なんでや……なんでここにあらへんのや……俊郎、本当に忍が持ち出したのか?」 「残念だけど、そう考えるのが妥当だと思う。あの通路を通って。たぶんそれが体力的に無理を強いたんだろうね。ばあちゃんの心臓に……」 「バカな……」 じいちゃんは床にへたりこんだ。しかしすぐ頭を上げると、重要なことを思い出したという顔付きでオレに迫ってきた。 「しかし忍はレシピなぞ持っとらんかったぞ」 |