エピソード1

再現屋、産声を上げる

【52】悪い噂



「へえー知らなかった。叔父さんたちまで理由を知らないなんて」
「親父が一人で“天使のプディング”の商品化権を押さえてるのは知ってるな?」
「うん、じいちゃんの切り札だって」
「そうだな。俺たち息子にも手の出しようがない部分だ。厄介な話だぜ、まったく」
 話す叔父とオレの脇で、憮然とした顔のお文さんがやけにカチャカチャと音を立てながら、じいちゃんのお膳を片付けている。じいちゃんのいないところで陰口まがいの話を交わされることが気に入らないのだ。
「俺の部屋に来いよ」と叔父は立ち上がって「ついでに冷蔵庫からビールを取ってきてくれ」
 オレは言われたとおり両手に缶ビールを持って、陽が暮れて暗くなった縁側を歩いて行った。奥の部屋に灯がともっており、叔父が手招きしていた。
 叔父が家を出るまで使っていた部屋は、お文さんの日々行き届いた掃除のおかげで、今日のようにたまに立ち寄っても、ホコリ一つ落ちてない。
「お袋が亡くなる一年ほど前、親父はヨーロッパの洋菓子協会に招待されて、三ヶ月ほど各地のお菓子工房の視察旅行をしてきた。いろいろ収穫があったようで、うちのプリンも負けちゃおれん、ますます磨きをかけねばと話してた。そして親父はプリン作りを再開した。ところが」
 叔父は缶をくいっと呷ると、暑くなったのか寄りかかった窓を開けた。早春のほの暖かい夜気がすーっと入ってきた。叔父が学生の頃に付き合っていた数知れないガールフレンドが座ったろう、小さな椅子に腰掛けて、オレは続きを待った。
「ところがだ、再開した途端あちこちのご贔屓(ひいき)筋からクレームが続出したんだよ。以前とは随分味が違うってね。俺たちは仰天したよ。なにしろ看板商品だからね。あわてて兄弟四人が雁首揃えて、この屋敷に駆けつけると、顔面蒼白の親父が怒った顔をして俺たちを待っていた。クレームと聞き、親父は先に厨房で点検を済ませていたらしい。機械が老朽化して、材料の配合にミスが出たんじゃないかという疑問をいとも簡単に否定した。それじゃ仕入れた牛乳や卵その他の材料に問題があるのかと会社が総がかりで調べたが、それもない。
 最終的に親父は“天使のプディング”製造を中止した。それで事態を終息させようとしたんだ。
 そんな折、いやな噂がどこからともなく湧いて出たんだ。“洋菓子界でマーケット拡大を強引に押し進める息子たちのやり方が気にくわない会長が、プリンの味をわざと変えて文句が出るようにし向けたと。製造中止はそんな会長の思惑どおりで、息子たちに、看板商品抜きで、お前たちの力だけでやってみろと言いたかったんだ”と」
「そ……そんなアホな!」
「ああまったくアホな話さ。誰がそんな噂話を流したのかと出所を調べてみたら、納入する牛乳の質が低下したので前年ウチが手を切った、とある牧場主さ」
「やっぱり」オレは大げさに胸を撫で下ろした。
「まあ、出る杭は打たれるの諺どおり、この手の流言飛語は日常茶飯時さ。どうってことない……はずだった」
 叔父は飲み干した缶をクシャッと潰した。
「当時、最悪と言っていいほど険悪になっていた親子関係を、その噂はド真ん中から打ち抜いたんだ。ばかばかしいと思いながらも、ひょっとして、という疑心暗鬼が生まれた。疑う心っていうのは一度生まれると消えないもんだ。心痛のあまり、お袋が寝付いたりしたのもこの頃だった。マザコン気のある勘次郎兄貴なんぞ、親父に対する怒りが炸裂しまくりで、親父追放して“天使のプディング”のレシピを奪い取るんだと盛んに息巻いてた。口論になるたびに、親父と差し違えるんじゃないかと心配したくらいだ」
 オレはだんだん気が滅入ってきた。



[次回]  [前回]

[再現屋・扉]   [ページトップへ]