志乃は床の上から動こうとしなかった。しかし高堂が部屋を出ると、両肩が小刻みに震え始めた。 こんな場面に立ち会ってしまった人間としては、どんな行動が適切なんだろう。 そう考えたのはほんの一瞬で、オレは踵(きびす)を返すと廊下に出て、高堂の後を追った。彼は靴を履いてやおら立ち上がろうとするところだった。玄関の間接光の下、深い陰影に縁取られた顔を見たとき、オレは追ってきたことを少し後悔した。 高堂と志乃。将軍と町娘の道ならぬ恋。だが、あろうことか将軍は町娘にフラれたのだ。そっとしておくのが武士の情けだろう。 しかしオレは言わずにいられなかった。 「志乃さんは……何度も『ごめんね』と謝っていました」 今じゃない、一昨晩の寝言だ。あれはまぎれもなく高堂に向けた言葉だと今は確信している。 高堂はそれを聞いてもただウンウンと頷(うなず)くばかりだった。オレはさらに踏み込んだ。 「ひとつ教えてください」 「なんだね」 「彼女は書き置きに何と書いていたのですか?」 高堂は上着のポケットをまさぐり、二つ折りの紙を取り出しとオレに示した。そこにはこう書かれてあった。 『ホントのさよならダヨ ギイちゃん。 志乃猫はアナタのいないお空に飛んできます』 まったく泣きたくなるほど志乃らしい字面(じづら)だ。書かれた内容は、あの夜キャットウーマンに扮した志乃こそが実はビルの屋上から飛ぼうとしていたのでは、という考えにオレを導いた。それはリストカット痕と重ね合わせると、さらに説得力を増す。 「志乃ちゃんは、自分が死ぬときは全身タイツを着て、美しく踊りながら死んでやるなんて戯言をよく口にしていた。ここ二、三年は劇団でも不遇をかこっていて最近は塞ぎがちだったしな」 オレと志乃の出逢いは、お互いとんでもないものだったのだ。 「あなたほどの人の力を以てしても、彼女を支援することはできなかったのですか?」 「君ぃ、志乃ちゃんがそんなことをされて喜ぶと思うかい?」 ……思わない。 「それにあのコには役者としての演技は無理だ。これをしおにスッパリ諦めるのが賢明だろう」 それだけ言うと、じゃっと手を挙げて、高堂はドライなほどあっさりと玄関口から外に消えた。 さまざまな謎がここへ来て一挙に解明された。それぞれが悲しい思いを抱きながら、次へ進むために心の血を流している。志乃が高堂を殴ったことだって二人の間を精算するためには必要不可欠な儀式だった。そう思うしかない。 高堂儀作は最後までスターだった。オレがいたからでもないだろうが、一切取り乱すことなく別れ話を受け入れた。志乃への未練などなかった、頭の中はもう次の女のことでいっぱいだ、などと冗談にも考えたくない。 足先にコツンと硬いものが当たった。携帯電話だ。高堂が座っていた辺りだ。彼のだろう。オレは拾い上げると、靴をつっかけて外に飛び出した。 高堂はエレベータの前にいた。 壁面に手を突いて静かに咽(むせ)び泣きながら。 高堂儀作。あなたの一挙一動は決して忘れない。 オレは自分の気持ちを抑えて近づくと、高堂のポケットに素速く携帯を落とし、脱兎のごとく駆け戻った。 カチャリと閉じた扉に凭(もた)れ、破裂しそうな心臓の鼓動を数えながら思う。こんなクライマックスばかりの映画なんて、観てる方が卒倒してしまう。 |