それは誰も見たことも想像したこともない光景だった。天下御免の時代劇ヒーローが女に殴り飛ばされたのだ。宙に舞った高堂儀作は座っていたソファをひっくり返し、床の上に背中からドスーンと落下した。 嗚呼(アア)ドウシテオレハビデオカメラヲモッテコナカッタノカ。このシーンをダビングして売れば一本数十万円は稼げたことだろう。くやしい。 いやそんな話はどうでもいい。相手は芸能界一のセレブだ。乱暴を働いてタダで済むのか。 「このアホ、ヒトの気も知らんと!」 志乃は握った拳をそのままに倒れた高堂へさらに襲いかかろうとする。 ヤバい。そう感じたオレは反射的に飛び出し、志乃を背後から抱きとめた。志乃はジタバタと暴れたが、顔をオレに向けると、 「あ、アンタおったんや」 なんだ忘れられてたのか。それじゃ、あの説明口調の会話って……役者のすることは判らん。 志乃の鼻息はなかなか治まらない。そうしてるうちに倒れていた高堂が上体を起こした。しまった、オレは自分の立場をどう釈明すればいい? 高堂は唇から僅かに血を流している。もしあのトレードマークの鷲鼻をへし折ったりしていたらどれだけ慰謝料を取られたか。そんな心配をしていたオレはひとまず安心した。 高堂は口許の血を指で拭うと、片膝ついてすっくと立ち上がった。その所作はさながらドラマを観るような水際だったもので、オレの目には高堂と彼の十八番『栗太郎侍』がダブって見えた。 「君が志乃の新しいオトコか。玄関に靴があったので気づいていたよ」 「そういうアンタにとって、あたしはここで何人目の住人!?」 そう叫んだ志乃はオレの腕の間を滑り落ちると、そのまま床にくずおれた。 無言の間が空いた。 テレビから流れるCMがそらぞらしい。オレはサイドテーブルに近づくと、床に転がっているテレビのリモコンを拾い上げてオフにした。 志乃の表情は、髪が陰になって読みとることができない。 おそるおそる高堂を見やると、彼の顔には明らかな疲れと憔悴が浮かんでいた。およそヒーローには縁遠い表情だ。オレはようやく彼の中で志乃の存在が大きいことに思い至った。 「あの、私は、志乃さんに頼まれて引っ越しのお手伝いに来ただけです」 高堂はオレの言葉に、にっと力なく笑うと軽く手を挙げた。そして再び志乃に顔を向け、優しい眼差しで口を開いた。 「志乃ちゃんが三日前、書き置きを残していなくなったときね、わしスゴく心配したんだよ。まるでそのまま死んじゃうような文面だったもんな。口の堅い探偵を雇って、ようやく今朝居所がつかめた。そこの彼だろう、男のアパートにいると連絡があったんで、そのまま尾行してもらってた。だからこうして今、志乃ちゃんと再会できたんだ。 ……最後に一言、ありがとうを言いたくてね」 高堂は手を後ろで組むと、遠い目をして話を接いだ。 「確かにこの部屋に住まわせた女性は君で五人目だ。でも君のようにちっとも喜ばなかった女性は初めてだな。ましてやプレゼントした服は着ない、金ならいくらでも都合すると言ってるのにバイトはする。君は……かなりヘンだよ。ハハハ。 でもね志乃ちゃん。君ほどわしを癒してくれた女性はいない。君といた五年間ほど充実して仕事のできたことはない。これは本心だよ。……でもわしは家族を捨てられなかった。済まん」 高堂は、床に女座りしている志乃の側に寄り、彼女の旋毛(つむじ)の辺りを軽く撫でると、そのまま振り返りもせずにリビングを出ていった。 |