「おーい、わしだ」 拡声器でも使っているのか、侵入者の大きな声は廊下に響き渡り、スリッパのパタパタという音が近づいてきた。志乃は声に弾かれたように立ち上がると、手の中のパンツをオレに押しつけ、寝室を飛び出していった。 “彼氏”の登場だ! ……それじゃオレの立場はどうなる? このままじゃ間男と勘違いされてしまう。どうしよう。 とにかく身を隠すしかない。オレは寝室の中を見渡した。部屋の隅の洋服ダンスが開いていた。それはウォークインクローゼットになっていて、奥の奥まで値の張りそうな洋服がこれでもかと並んでいる。隠れるには絶好の場所だ。 「おお、やっぱり志乃ちゃんか。よう戻って来てくれた。わしゃうれしいぞ」 「あんた京都で撮影の日ぃと違(ちゃ)うの?」 「わはは、わがまま言うたった。東京のスタジオでも撮影できるじゃろーてな」 クローゼットに入りかけたオレの足が止まった。男の声に聞き覚えがある。まさか。 オレが廊下に顔を出すと、志乃が男の背中を押しながら、リビングに連れて行くところだった。逆光で侵入者の人相は判別できない。よほど気分が高揚しているのか笑い続けている。オレはその笑い声に吸い寄せられるように廊下に一歩出た。 「志乃ちゃんはきっと戻ってくると信じとった。だから東京から離れないようにしてたんだ。毎日撮影が終わるたんびにココに来とったんだぞ」 快活に喋り続ける男の正体は今や明らかだ。オレはコーナーから彼の横顔をそっと覗き見た。 白いものが混じった短髪の下の彫りの深い顔。柔和そうな目と独特の鷲鼻。顎髭が年齢を分からなくしているが、まだ五十代前半のはず。全身をアルマーニだかどこだかで仕立てたスーツでキメた長身痩躯はまさに絵に描いたような役者。 高堂儀作(こうどうぎさく)。彼を主人公にして撮られた時代劇映画やドラマは数知れない。まさに今の日本映画界を支えるドル箱スターだ。まさかこんなところでお目にかかれるなんて。ビデオカメラがないのが残念だ。オレは久しぶりに撮影魂が身内に燃え上がるのを感じた。 男をソファに座らせると、志乃は後ろを向いて舌打ちした。先ほどの発言といい、彼女は高堂の登場を予測していなかったようだ。いや彼の東京不在を突いてのマンション訪問だったのだろう。なんとなくホッとした。だがこの状況はどう展開するのだろう。 「ギイちゃん、あたし大阪に帰ることにしてん」 「そうか。じゃあ京都にでも新しいマンションを買ってやろう。その方がわしも都合がいいしな」 「そやない! わたしもう不倫はイヤやねん!」 なんて分かりやすい会話だ。ほぼ現状が把握できた。さすが一流役者と役者くずれ。 いや違う。志乃は耳をそばだてているオレを意識してるんだ。説明の要を省くために。 しかし互いの呼び名がギイちゃん志乃ちゃんとは。二人の付き合いは短くも浅くもなさそうだ。 「この前フライデーされとったやろ。若い女と深夜に銀座歩いてるとこ」 高堂は内ポケットから煙草を取り出すと、粋な仕草で火をつけ、天井に向かって煙を吐いた。 「志乃ちゃん、わしの商売は知ってるだろ? 老若男女を問わず、さまざまな人間がいろんな話を持ってくる。中にはいい話もあり悪い話もある。判断するには耳を傾けなくちゃならん。相手が若い女性の場合もあろうさ。それに今に始まったことじゃないだろ?」 志乃は決然と顎を上げると高堂に向き直った。つかつかと歩み寄り、高堂のくわえる煙草を左手で抜き取ったかと思うと、右手に反動をつけて、高堂の頬を力まかせに張り飛ばした。 しかもグウだ、グウ。 |