視界がぐるぐると回転した。倒れるまいと側のテーブルに手を伸ばすと、ガラスの天板が電灯をキラリと反射して「指紋で汚すな」と威嚇したように思えたので、思わず手を引っ込めた。 志乃が何か話しかけているが聞き取れない。オレは何とか両足を踏ん張った。ふいに足許が暖かくなった。志乃が床暖房を入れたらしいが、このときはそんなことすら認識できなかった。 志乃はオレに近寄るとドンと胸を押した。オレはバランスを失い、ソファに深々と腰を落とした。……ああなんて座り心地がいいんだ。我が家でベッドと化しているディスカウントショップのソファとは雲泥の差だ。 「これ飲んで、休んでて」 ガラスのテーブルに水割りが置かれた。音楽が流れてきたので目をやると、巨大なプラズマテレビが歌番組を映している。オレは水割りのコップを掴むと、一気に呷(あお)った。 ようやく人心地ついたので、オレは状況を再確認する気になった。立ち上がって窓に近寄ると、夕闇に天王洲アイルや東京タワーを見分けることができた。昼間ならきっと富士山が見えるだろう。 こんな一等地の高級マンションを志乃は自分の家だと言った。本当だとすれば、最初に出会ったときの言葉「帰るトコない」に矛盾する。どういうことだ? ここまで圧倒されっぱなしのオレだが、もう我慢の限界だ。意を決して彼女の方を振り向いた。 「なあ、この家は……」 すでに彼女の姿はリビングになかった。オレはあわてて廊下との間のドアに向かったが、そのとき冷蔵庫の表面に貼られたカレンダーが目に入った。近寄るとそこには細かな字がビッシリと書かれており、どれもがアルバイトの予定だった。脇には数枚の写真がマグネットで留められてあり、バイト先でのスナップらしく、焼き肉屋やハンバーガーショップの店員と思しき服装の志乃が、おどけた顔で友人らと一緒に写っていた。 このマンションに志乃が住んでいたことは、どうやら動かしようのない事実らしい。それじゃどうして嘘をつかなきゃならなかった? オレはフローリングの廊下に出ると、志乃の姿を探し求めた。扉は左側の壁面に沿って三つ。その一番奥が開いており、がさごそと音がする。 「なあ、志乃さ……」 オレは言葉を途中で飲み込んだ。そこは大きな寝室で、これまた大きなベッドが中央にデーンと鎮座している。志乃はその上に山のような衣類を広げて、忙しなく畳んでいた。 「なんやー待っとってくれたらええのに」 「いったい何してんの?」 「何てご覧のとおりよー。大阪へ帰るて決めたから、荷物まとめてるんやないですかー」 確かにカーペットにはトランクが口を開けており、Tシャツや下着などが詰め込まれている。 オレ一人悩ませて、いったいこの女は……!! とうとう堪忍袋の緒が切れて、オレはベッドを両手で強く叩いた……つもりだったが、過剰なほどの弾力性がオレの身体を前のめりに一回転させ、志乃の目と鼻の先に尻から着地した。 「すごーい。体操選手みたいや。パチパチパチ」 オレはカッとなって、さらに詰め寄った。 「いい加減にしてくれ! さあ説明! なんで家があるのに無いってウソついた?」 「ああ……えーっとね、あたしはココに住んでたけど、住まわせてもろてるだけやねん」 「誰に?」 オレは志乃に話を脱線させまいと、単刀直入に質問を続けた。志乃は俯いたまま答えた。 「あたしの、彼氏」 か、か、か、か、か。 「彼氏って、それはどういう……」 そのとき玄関の方でガチャリと音がした。 |