エピソード1

再現屋、産声を上げる

【14】 寝言



「ごめんな、ごめんな」
 志乃の絶叫は冬の静寂(しじま)を切り裂いて、泥のごとく眠りを貪っていたオレの目を一瞬にして覚醒させた。
 後で考えれば、さほど大きな声ではなかったろう。安アパートの薄い壁越しにお隣さんの眠りまで妨げるほどではなかった。しかし問題は声量より声質だ。隣室にいたオレの心臓を鷲掴みにした、というか心胆寒からしめる声だったことは間違いない。
 相変わらず志乃にベッドを占領されたままだったオレは、キッチン脇に置いたソファの上でガバと跳ね起きた。しかし運悪くキッチンテーブルの角に頭を打ち付け、バランスを崩したままソファから滑り落ちると、置きっぱなしの掃除機に膝をイヤというほどぶつけた。この時ほど狭いアパートを呪ったことはない。
 人間の順応性とは恐ろしいものだ。長年の安アパート暮らしは、どんな状況においても大声を抑制する機能をオレに付加した。とはいえ、頭と膝を抱えて涙を流しながらウンウン唸ることだけはいかんとも避け難い。
 オレは引き戸を少し開いて、志乃の様子をうかがった。窓の隙間から差し込む外廊下の電灯に照らされて、彼女は虚空に伸ばした腕を布団の上に落とすところだった。しばらく観察を続けたが、どうやら夢のクライマックスは越えたらしい。後輩さん大挙襲来の後だから、あまり寝言を連発されるとさすがにご近所からの苦情が心配になる。
 オレは戸を閉めようとしたが、思い直して志乃の眠る部屋に入った。そして布団の上に投げ出したままの彼女の両腕を布団の中に入れてやった。
 志乃の寝顔からは「ごめん」と謝らねばならないような夢を想像することはできない。いかにも気持ち良さげに寝息を立てている。
 オレは彼女の左手をつかんだまま、しばし寝顔に見入っていた。見入りながら思い出すのはユキコのことだった。背中合わせで寝ることはあっても、ゆっくりと寝顔を拝んだことはついぞなかったかもしれない。いまさら後悔しても遅いが。
 ふと異物感を感じて、つかんでいた志乃の手首の裏を光にすかしてみた。かろうじて目に付く程度だが、腕と直角に傷らしき痕がある。
 リストカット。ためらい傷。
 軽々しく断言することはできないが、そんな切り傷に見えないこともない。ひょっとすると、志乃の苦悩は演劇に関することだけじゃないのかもしれない。
 オレはそっと腕を布団の下に滑り込ませてやった。すると彼女は、僅かに体をねじったかと思うと、再び口を開いた。
「猫……猫がおるで……よぉ見てみ」
 背筋に冷たいものが走った。反射的に部屋の中を見回したが、猫なんてどこにもいない。それが寝言だと気づくまで十数秒を要した。
 寝言はそれで終わりだった。さすが女優志望だ。眠っていても真に迫った演技。オレは改めて感心した。これでどうしてクビになるのか理解できない。
 まあ猫の登場する夢なら大丈夫だろう。オレは一人合点して部屋を出ると、静かに戸を閉めた。
 翌日も早朝出勤。まだ歩行困難な志乃も、後輩が置いていった食料の山があるので出かけないで済む。オレもおこぼれ頂戴と、食パンを一枚だけくわえて、眠る志乃を残し、家を出た。
 睡眠と食事が満ち足りることのなんと大切なことか。オレは痛感した。この日の仕事ぶりには我ながら余裕が感じられたのだ。河辺チーフにも「顔色が良くなったな」と声をかけられ、オレは気を良くして配送車のアクセルを踏んだ。
 夕刻。あと一軒回れば仕事は終わりだ。オレは速度を落とさず、街角を曲がった。そのとき小さな三毛猫が一匹、車の前に飛び出してきた。



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