うぐっ。 「さっき、ぽんぽこりんの大家さんが言うてはったやん。ね、ね、誰なん、ユキコさんて」 しっかり聞いてたか。 「……同棲してた女だよ」 「エエ〜ッ! そんな人おったんや。見かけによらんねえ〜」 志乃は急に目を輝かせ始めた。 「もう出て行ったよ。昨日」 「そっかー。それで落ち込んでたんや、アハハ」 笑ってほしくない。 「これってユキコさんの字やったんかぁ〜」 志乃が手に持っていたのは、あの書き置きだ。 「“サヨナラ。突然だけど”」 「読むなーっ!」 オレは荒々しく奪い取ると、丸めて捨てた。 「なんかさー、部屋の中がミョーに広いなぁって思てたんよ。寝室の畳かて日焼けしてないとこ、クッキリ残ってたし……ワケ全部話してみ」 すでに新宿のビル屋上で醜態……というのか、見られていたオレとしては強く反論に出られない。がっくり頭を垂れると、オレ自身の話をさせられるハメになった。 大阪の芸大に入って、映像に関わる仕事をしたかったのに、就職した先はアニメ会社の下請けで、ずっと使いっ走りだったこと。その会社が昨日つぶれたこと。同棲していたユキコとはすれ違いの連続で、とうとう愛想を尽かされたこと。 「ビルに上ったのは、いつもオレを見くだしてる東京って街を、逆に見おろしてやりたかっただけなんだ」 さすがにダイビング未遂については言えない。しかしそのときの気持ちは思い出すことができた。 ユキコってどんな顔してたっけ。もう長いこと寝顔しか見てなかった気がする。彼女に去られて味わった消失感、喪失感、そして身を切られるような寂寞(せきばく)とした気持ち。当たり前のように居た者が居なくなるという違和感。のほほんと生きてきたオレにとってこれほどの衝撃はかつてなかった。オレは彼女を、ユキコを愛していたんだろうか。今となってはそれすら判らない。 また涙があふれてきたので、志乃に見られないよう顔を伏せた。そして自分の感情を打ち消すように話を続けた。 今朝、河辺チーフの電話が入って、ひとまず今月は仕事ができることになった。ただその後は未定だ。今夜は社の車を持って帰っていて、明日もそのまま出かけるつもり。 「大変やったんやねえ。お疲れさま」 志乃は新しい缶ビールを開け、オレにどうぞと差し出した。オレは受け取り、 「それはそうと、志乃さんの話を聞かせてよ」 缶を両手に包み込みながら、ようやく聞く側に立った。 「ワタシの話? べつにオモロいことないよ」 「オレのだって面白くない」 「まあ、ねぇ……」 志乃はおつまみの袋を開封すると、皿の上に盛り、ひとつまみ頬ばった。 「ワタシは東大阪出身で、昭和四十九年生まれ」 「四十九年? じゃあオレと一緒だ」 「ワタシはクリスマスの月〜」 「オレ三月。じゃあ学年は一個違いか」 同い年と聞いて少しホッとした。ようやくこの正体不明の女が現実味を帯びてきた。 「大阪の某私立大学におったときから演劇やってて、せっかくやからメジャーデビューしたろう思て上京したんよー。でも世の中甘ないね〜。受けるオーディション片っ端から落ちたわ。小さい役でもええからチョーダイ〜て泣きついてもアカンかったね。ワタシってバタくさい顔してるやん。それで使いにくいんかなぁて悩んだりして。結局、芽が出んまま、この歳になってしもた」 |