面倒見のいい河辺チーフの話は非常にありがたかった。期間限定はやむを得ないが、ひとまず次の身の振り方を考える時間はできたわけだ。 「それじゃ頼んだぞ」 チーフはオレの背中をポンと叩いて送り出してくれた。今は亡き社名を脇腹に大書したバンは、もの悲しいエンジン音をたてて出発した。 だが、この日はいつもの十倍ハードだった。仕事内容は相変わらずで、山のような紙束を抱えてスタジオの階段を上下したり、渋滞の道路を迂回するのに神経を使ったり、心身共に休まる暇がなかった。その上昼飯を食う時間もなく、なんとか夜八時にあがれたものの、社用車でアパートに直帰したときは、空腹で歩くのもままならなかった。 アパート裏の路地に車を止めて、塀づたいに歩いてくると、いいにおいが鼻先に漂ってきた。どこかの家族が夕食の膳を囲んでいるに違いない。万年外食生活のオレには毒だ。朝飯昼飯抜きの空きっ腹には特にこたえる。 志乃はどうしてるだろう。出がけに「冷蔵庫のものを適当に食ってくれ」と書き置きしておいたが、ろくなものは残ってなかったはずだ。 アパートの表にまわったところで、暗がりに突っ立っていた人影とぶつかりそうになった。大家の綿貫(わたぬき)だった。住人の顔も二、三見える。 「大家さんじゃないですか」 「菊池さん!」 信楽焼のタヌキそっくりの、頭二つ低い綿貫の顔が、オレを不安そうに見上げた。 「あ、あんた、知ってるのかい?」 「何がですか?」 「あ……あれだよ」 綿貫が指さしたのはオレん家だった。玄関の扉が全開になっており、にぎやかなというより騒々しい声があたりに響き渡っている。と、若者がふたり飛び出してきた。目を丸くしているオレや綿貫を後目に、彼らは自転車にまたがって表通りに消えた。 オレは狐につままれた思いで玄関へと近づいた。換気扇から湯気が立ち上っている。さっき裏でかいだにおいはこれだったらしい。 扉越しに覗くオレの目に映ったのは、忙しく動き回る二十歳前後の若い女たちだった。十人以上いる。まちまちのエプロンを掛けた彼女らは鍋の味見をしたり、野菜を包丁で切ったり、皿を並べたりと、かいがいしく立ち働いている。 彼女らはオレに気づくと、号令をかけたように頭を下げた。 「おかえりなさーい」 そう言われたって、見知った顔はひとつもない。 中のひとりが奥に向かって叫んだ。 「姐(ねえ)さーん。カレシのご到着ですよー」 ご到着って、ここはオレん家だ。違うのかな。判らなくなってきた。オレの頭はついに破綻を来たし、その場にへたり込んでしまった。 「大丈夫ですかぁ」「つかまってください」 口々に呼びかけてくる女たちに支えられて、オレは靴を脱ぎ、キッチンの椅子に腰掛けさせられた。 それからの半時間、オレは彼女らの動きをただ見守っているだけだった。さっき出ていったふたりの男も帰ってきた。どうやら買い出しに行ってたらしい。そしてようやく一段落ついたのだろう。姐さん失礼しますーと合唱し、志乃がありがとなぁ〜と応じると、全員きれいに退散した。 テーブルの向かいには、松葉杖をつきながら志乃が着席した。目の前には、この部屋ではかつて見たこともない家庭料理が並んでいる。 「ヘヘヘー。めっちゃビックリしてる?」 志乃はニコニコ笑っている。いつの間にか、無断でオレのTシャツに着替えてる。 「あのコらカワイイやろ。劇団の後輩やねん」 |