エピソード1

再現屋、産声を上げる

【7】 女の頼み



 さすがにオレも開いた口がふさがらなかった。まだ会って間もない、しかも異性に浴びせる言葉なのか。第一オレはまだこの女の素性も何も知らないときてる。
「帰る家がないって、家出?」
「そんなんちゃうねん。ホンマにないねん」
 女の声がさっきより弱々しくなった。
 若者たちの乗ったバイクが夜の道をワンワンいわせながら駆け抜けていく。ライダーのひとりがこちらを指さして笑った。一組のカップルがオレたちの横を妙な顔をして通り過ぎていく。まあ判らないでもない。冬空の下、黒いタイツに身を包んだ女をオンブして佇む姿はどう見たって新宿の街角に馴染まない。酔いつぶれたカノジョを自宅へ送り届けようとしてる、ぐらいが妥当な想像か。
「家族の人に迷惑かかる? そうやったらその辺に捨てて行って」
「いや、そういう」わけじゃないのだ。悲しいかな、一緒に暮らしていた女に逃げられ、殺風景なアパートの部屋は今もひっそり静まりかえっているだろう。
 逡巡していると、オレの首筋にかかるナマ暖かい吐息がだんだん大きくなってきた。
 今度は色仕掛けか?
「あ、あのお」
 振り向いて女の顔を覗き込むと、どうも様子がおかしい。もしやと思い、オレは左手と背中で重みを支えながら、右手を女の額に押し当てた。
 尋常な熱ではなさそうだ。女は心持ちアゴをあげ、とろんとした目でオレを見つめた。
「アハハ……やっぱり冬やな。こんな格好で何時間もおったら風邪引かんほうがおかしいわ」
 力なく笑うと面を伏せた。
 しかたがない。
「オレん家、遠いですよ」
「ごめんなあ、世話かけて」
 オレは覚悟を決めた。連れて帰るのはいいとして、問題は体力だ。ここ新宿からオレん家まではうんざりするほど距離がある。
 初めから女の頼みをすげなく断る気はなかった。この女はどうも赤の他人という気がしない。ナニかがある。それが何なのか、この時のオレはまだ気づいていなかった。
 オレが惹かれた理由のひとつは、女の言葉だ。
「ありがとう」「ごめん」。
 久しぶりに耳にした。同棲していた女が口にしたのを聞いたことがない。もっとも感謝されるようなことをしてやらなかったせいだが。
 ちなみに、オレのばあちゃんは「ありがとう」や「ごめん」をとても真情込めて言える人だった。じいちゃんが正反対の性格だったからよけいにそれが際立った。
 女との出会いは奇妙なものだったし、いまだ正体は不明のままだが、オレはすでにこの女を信用していた。貯水槽での踊りも、オレの気を削ぐための演技だったんじゃないだろうか。
 いつしかオレの足はアパートに向かって歩き始めていた。人を負ぶって長距離を歩いたことなんてないから、日頃の運動不足がたたって、すぐに筋肉が悲鳴を上げ始めた。
 オレはコンビニを発見するたび、女に温かいドリンクを飲ませてやったり、二十四時間営業のドラッグストアで風邪薬を買って飲ませたりした。オレ自身もたびたび休憩をとったのは当然だが。
 薬が効いたせいで、女は背中でよく眠った。しかし眠ている人間ってどうしてこう重いんだ。
 そうこうしているうちに空が白んできた。時計を見るともう四時間歩いてる。体中がガクガクするが、よくがんばった。自分をほめてやりたい。
 オレたちはようやくアパートにたどり着いた。
 女は身じろぎしたかと思うと、オレの耳元でこう囁いた。
「ワタシ、志乃っていいます。よろしくぅ」



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