その響き渡る声にオレはビルの縁を踏み外した。 「おわっ」 伸ばした腕で金網をつかみ、かろうじて落下は免れたが、尻をしたたかに打ち付けてしまった。あとコンマ一秒動作が遅かったらオレの体は空中を漂っていたことだろう。危機一髪。 ……オレは何をしようとしてた? 声はオレに向かって発せられたものらしい。おかげで落ちそうになったのか救われたのか判然としないが、よりによって『待ちな』とは。懐かしのドラマでもなかなか耳にできない台詞だ。誰なんだ声の主は。 オレはゆっくりと金網に向き直ると、震える体を屋上の敷地内に押し込んだ。 心臓がまだバクバクしてる。痛む尻をさすりながらオレは周囲をうかがった。 「ホホホホホホ」 声は、焼き肉のにおいがもうもうと立ち上る煙突の向こう、大きな貯水槽の上から聞こえてきた。 その人物は貯水槽のハシゴに片手片足でつかまり、月の光を背に受けて、静かにオレを見下ろしていた。 シルエットから察するとやはり女らしい。首に巻いたスカーフが風になびいている。頭の上のツノ状のものは……猫の耳か? 「うろたえるでない。若者よ」 うろたえてはいなかったが、オレはバカみたいに口を開けて女を見上げていた。女は逆光に顔を隠したまま、よく透る声で話しかけてきた。 「青春は悩み多きものであるぞ」 オレは呼吸を整える間もないまま、息を詰めて女を観察した。芝居じみた口調で語りかけるその姿は、身長百六十センチといったところか。スリムで均整のとれた肢体を、体にぴったりと張り付いた服が強調している。というかタイツか薄地の着ぐるみのようにも見える。 女は優美な動作でハシゴを一段降りた。オレはなぜか背筋がぞくっとした。女の動きはまるで背中に羽でも生えているような軽やかさで、この世のモノではないように思えたからだ。 オレはおそるおそる尋ねた。 「あの……あなたはどなたですか?」 女がもの憂げに腰を振ると、尻のあたりから細いものが垂れ下がった。尻尾? 「我が名は、バット・ウーマン」 そう答えると女は空いたほうの左手で宙を泳ぐ仕草をして見せた。 「……ひょっとして『バットマン・リターンズ』の、ですか?」 「そのとおりじゃ。よく知っておるの」 まるで酔っているような口振りだ。オレは髪をかき上げながら、 「それって、キャット・ウーマンでは?」 「うっ」 一瞬動きが止まったが、女は言葉を継いだ。 「そうとも言う」 女は深呼吸をひとつすると、動きを取り戻した。 「そ、そちは関西の生まれではないかの?」 「ハア、大阪です。わかりますか」 「あまり訛りが出ないようじゃが」 「よく言われます。帰省すると関西弁なのに、こちらにいると自然に東京の言葉になっちゃって。ははは。主体性がないんです」 女はオレの返事にかまわず、 「そちのな、運気は今日から上昇するぞよ」 「ハア」 「西を目指すがよい。励むのじゃ若者よ。明日はそなたの・も・の」 オレはハアと気の抜けた返事を繰り返した。しかし、すっかり女の雰囲気に飲まれてしまい、ありがたい御託宣、と我知らず頭を下げていた。 女はさらにハシゴを一段降りようとした。その時ズルッと足を滑らせた。 |