……あと少しだから、我慢して聞いてくれ。 別段アニメが嫌いなわけじゃない。どちらかといえば好きだ。でも一度映像の魔力に魅いられた者として、毎日ひたすら宅配便の真似事に終始するような仕事は苦行以外の何物でもなかった。それでも辞めなかったのは、いつか演出の現場に近づけるんじゃないかという甘い見通しと……女だ。 いやこの女はあの女じゃない。ややこしいが。 その頃オレはアニメーターの女と同棲していた。生活が所帯じみてくると現状への妥協も生まれ、かつて抱いていた映画への熱意や野望も徐々に萎えていった。自分の才能を活かせる場がどこかにあるんじゃないかと考えることも減った。いつかこの女と結婚して平凡な人生を送るんだろうなと思う日々だった。 ところがそんなささやかな夢さえ打ち砕かれる日が来た。会社が潰れたのだ。おまけに社長が会社の金を持ち逃げした。二ヶ月分の給料を未払いのまま。失意でアパートに帰ってみると、テーブルの上に手紙が置いてあった。 『サヨナラ。とつぜんだけど田舎に帰ることになりました。元気でね。』 同棲して一年半。一緒に暮らしていてもすれ違う毎日。どこかに遊びに連れて行ったこともない。そういえば彼女の田舎は九州だったか四国だったか。ちゃんと聞いてなかった。オレってやっぱりどこかヌケてる。 行き場も、やすらぎの場もなくしたオレはその夜、あてどなく東京の街を徘徊した。春なお遠い二月の風は肌寒かった。 午前0時をまわっても東京という街は落ち着くことがない。二十四時間営業の遊園地。世の中不景気のはずなのにこの人の多さは何だ。笑ってる奴、怒ってる奴、歌ってる奴、すましてる奴。どいつもこいつも“明日”があるからそうやって目先の感情をあらわにできるんだろう。 オレの“明日”は消えた。オレは負け組だ。 大阪から上京して早や五年。その日その日の仕事に追われるだけの毎日で、オレは何を得た? 何もありゃしない。一日で吹き飛ぶようなモンだったんだ。 どこでボタンを掛け違えたのか。目の前を笑いながら通り過ぎる連中とオレとは、何が違うってんだろう。 オレはたまらなくムシャクシャした。かと言って、ひとりで酒を飲みたい気分じゃない。 午前2時。新宿の裏通りをとぼとぼと歩いていたオレは、ふと見上げた雑居ビルに目をつけた。比較的ノッポのそのビルはオレに向かって登ってこいと手招きしているように思えた。 よし、登ってやるよ。今宵限りで東京とはオサラバだ。最後の見納めに高いところから勝ち組の連中を見下ろしてやる。 ビルの裏階段を駆け上がり、オレは屋上に躍り出た。風はあったが、無数に開いた孔から漏れ出す熱がオレを暖かく迎えてくれた。 縁に歩み寄って見下ろすと、下界は思ったほど華やかに見えなかった。むしろ卑小に見えた。オレは肩すかしをくらった気分になった。 水平線に目を向けると、月明かりに照らされたビルの群れがまるで墓場のようだった。そのときオレは唐突に、ばあちゃんを思い出した。恥ずかしながらオレはばあちゃん子だった。親父やお袋よりもばあちゃんが大好きだった。数年前に亡くなった時は誰よりも号泣したものだ。 ばあちゃんが呼んだ気がする。一歩前に踏み出せば、ばあちゃんのいる所へ行けるかな。 オレは屋上を囲む金網を越えると、足を揃えて目を閉じた。アリベデルチ(さようなら)東京!! 「待ちな!」 女の声がオレの耳をつんざいた。 |