no.23
2086年1月4日 (10)
 
 地の底から轟くような低音が聞こえてきたのは、まさにその時だった。
 閉じ込められた狭い空間。しかも原子炉を内包する巨大な装置の内部。まさにカゴの中の鳥だ。
 不気味な音は、カーブを描くように音程と音量を上げていく。と同時に、電灯が消え、非常灯がコントロールルーム内をオレンジ色に染めた。
 私はえも言われぬ恐怖に身体をすくませていた。
 覚悟はしていたはずだった。
 もとより命が惜しいわけでもない。
 なのに、装置を開発した科学者が残した言葉のせいで、予想外の動揺を与えられてしまった。
 装置を起動するだけではダメなのか?
 心臓に爆弾を抱えた私では役不足なのか?
 その上、最後の謎掛けはいったい──。
 壁も椅子も激しく震動し続ける。身体がひっくり返らないよう両手で壁を支えた。
 ややあって、身体の内部が変な違和感を感じ始めた。細胞の一つひとつが踊り狂うような奇妙な感覚。
 たまらず、壁から手を離し、胸に当ててみる。
 ぞっとした。手の平が皮膚を通り抜けたではないか!
 目をやると、そんなことは起こっていなかった。
 だが自分を見つめる目さえ、どこか離れたところから見ているような気がする。
 おかしい。五体と五感とが乖離している。
 自分の身体であって自分ではない。そんなズレが刻々と広がっているのだ。
 続いて、乗り物酔いに似た嘔吐感が襲ってきた。胃を激しく揺さぶるや、洗濯機のようにかき回した。
 これでいいのか?
 いいのだと信じるしかない。何が起ころうと。
 最後までこの心臓がもってさえくれれば。
 今や目も耳もはるか遠いところに飛び去った気がしていた。そんな耳が、かすかな女性の声を拾った。
「スピカか?」
『ああ、やっとお返事があった』
 彼女の声はルームの中で乱反射し、頭の中をぐるりと一回りすると、桜の花びらのように舞い散った。決して比喩などではなく、本当にそう感じたのだ。
 翻弄される嵐の中、私は彼女の声にすがりついた。
「スピカ、何でもいいから話しかけてくれ。でないと押し流されてしまいそうだ」
『な、何を話せばいいのでしょうか?』
「──そうだ、歌だ、歌を聴かせてくれないか」
 突然の懇願に、スピカの返事はなかった。だが次に聴こえてきたのは、昔どこかで耳にした子守唄だった。

 おやすみ おやすみなさい
 ほら 夢のステージの幕が上がるよ
 おやすみ おやすみなさい
 ほら 月が光を弱めようとしてるよ

 歌声は私に少年の頃を思い出させた。
 誰の歌だったか、どこで耳にしたのか、まったく思い出せない。それでもはち切れんばかりの懐かしさを帯びたメロディーだけは、今も鮮やかによみがえってくる。

 眠りの丘は ふわふわ なだらか
 眠りの川は さらさら ゆるやか
 眠りの風は そよそよ おだやか
 眠りのボウは もふもふ のんびり

 ボウというのが何なのか、当時、その正体をめぐって議論が起こった記憶がある。結局のところ結論は出ずじまいだったが、あれはきっと、そうなることを見込んだ作詞者のいたずらだったのだろう。
「古い曲をよく覚えているな」
 つとめて平静な口調で感想を述べると、
『幼少の頃、両親がよく歌ってくれたのです』
 ピシッ。
 心臓がひび割れるような音が耳に届いた。私は息を止めて、絶叫をどうにか耐えた。
「君は、ボウの正体は、何だと思う」
『カバじゃないでしょうか。のんびりと日がな一日水につかっていて』
「なるほどな。私は──」
 ウシだと思うと言おうとした途端、前触れもなくパーンッと大きな破裂音が脳髄を直撃した。
 音は強烈な風圧を伴って、耳たぶを根元から引きちぎり、両腕を根元からもぎ取り、さらには両足をこなごなの肉片に吹き飛ばした。
 飛び散った頭部を離れた両目は、部屋の壁に当たると跳ね返り、今しがたまで私が座っていた椅子の上にコロリと転がった。
 二つの眼球が最後に見たのは、どこか懐かしさに溢れた光景だった。
 ベッドで横になった少女。彼女の顔をのぞき込む両親。
 そこには一点の曇りもない愛情があった。
 私が生涯に一度も経験したことのない感情が、そこには満ち足りていた。
 眼球はふいに湿り気を帯びると、涙腺もないのにそっと涙をこぼした。
 なぜ涙が流れるのか。眼球には考えもつかない。それでもベッドの少女がスピカであることは確信していた。
 人類がコピードに対して抱いていたのは、迫害や無視や蔑視といった負の感情だけではなかったのか。
 ふたつの《種族》の間に横たわる壁を、やすやすと越えていった者たちがいたのか。
 ──悲嘆にくれつつ消えて行った他の人類を尻目に、彼らは幸福な時間を持つことができた。できたのだ!
 光景は茜色に染まっていた。懐かしさを感じたのはそのせいかもしれない。
 親子は眼球の思いなど知ることもなく、互いに見つめ合っていた。ずっと──。

 コントロールルームが再び姿を現した時、スピカは階段を駆け上がるや、急いで扉を開けようとした。
 しかし把手が異常なほど熱かったため、取りに戻ったハンマーを叩きつけ、ようやく開くことができた。

 誰かが私の名を呼んでいる。
 目を開けてと言っている。
 眼球だけになってしまっては、開くまぶたもないぞ。
 そうつぶやくと、目に指がかかるのを感じた。
 パリパリと張りついたまぶたが押し開かれた。まぶたがあったのか。
 さっと光が降り注ぐ。
 研究所の天井の下に、のぞき込むスピカの顔。
「私は──私の身体はどうなった──手や足は──」
「見たところ、怪我はないようです」
「そんなバカな──」
 肉体は爆発し、四散したのではないのか?
 確認するべく首を持ち上げようにも、まったく力が入らない。スピカが後頭部に手を当てて助けてくれて、両手両足が無事なことを知り、ようやくホッとできた。
 私は階段を降りたすぐの床に寝かされていた。
「装置は壊れました。動かせるのは一度きりだったようです」
「いや、一度で十分だ。こんな機械に二度も乗る気はしない」
「でも、成果が得られたのかどうか」
「得られたさ」
 私は不規則に脈打つ心臓を片手で押さえつつ、もう一方の手をスピカの手に重ねた。
 スピカは戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにそれを隠し、
「装置につながった計器を一通りチェックしましたが、外部には大した放射能漏れはありませんでした。もしかすると装置のどこかに欠陥があったのかもしれません。せっかくの苦労が水の泡に──」
「実験は成功した」
 私は力を込めて断言した。しかしスピカは眉を寄せて首を傾げた。明らかに私の正気加減を疑っていた。
 今だ。私は思いきって告げた。
「スピカ。結婚してくれ」
「………」
「イヤか?」
「いえ──あまりに唐突なので」
 ドクン。また心臓を大きな津波が襲った。しかめた顔にスピカも気づき、
「痛いのですね。急いで保健室に行きましょう。医者も呼び戻します」
 私はスピカの手を握って押しとどめた。
「そんなことより、返事をくれ。イエスかノーか」
「……イエス、です」
 私は大きくうなずくと、身体から力を抜いて頭を床に横たえた。
「よかった──これで思い残すことはない」
「教えてください。分からないことだらけです」
 あくまでスピカは食い下がる。
「ああ、説明するよ」
 ──グフッ。
 限界だった。大津波がとうとう心臓のリズムを奪った。
 私は目を剥き出し、虚空を睨みつけた。
「待て──もう少し時間をくれ──」
 拳で胸を叩く。だが我が肉体のエンジンはついにその任から降りようとしていた。
「すぐに医者を呼びます!」
 駆けて行こうとするスピカの腕を、私は離さなかった。
 最後の力を振り絞り、彼女の耳に口に近づける。
「いいな──結婚だぞ──」

 私の瞳に映った最後の光景は、目に涙をためたスピカの顔だった。
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