no.21
2086年1月4日 (8)
 
 私の頼りない足取りに不安を覚えたらしく、スピカはどこからか車いすを調達してきた。“決戦の場”には堂々と歩いて臨みたかったのだが、心臓の状態は依然芳しくなく、立ちくらみが五分に一度は押し寄せてくる。あきらめてシートの上に腰をおろした。
「えらく静かだな」
 ネクタイを締め直す私の耳には、周囲からコトリとも物音が聞こえてこない。
「構内にいる職員は私だけです」
「さっきの警官や医者たちはどうした?」
「退避しました」
「退避──つまり、万一の放射能漏れを警戒してか?」
「そうです。もちろん大学の外では、万全の備えをしたレスキュー隊が待機していますが」
 淡々とした口調に、私はハッとして振り返った。
「君はどうなる? 私はやむを得ないにしても、君まで命を危険にさらすことになる」
「構いません。自ら進んで志願したのです」
「どうして?」
「誰かがしなくてはいけないことですから」
 確かに、足許のおぼつかない老人にはありがたいことではあるが。
 心優しきコピードの献身の精神か、はたまた冷徹な監視員ということか。
「しかし」考え考え言葉をつなぐ。「あの謎だらけの装置が、必ずしもコピードのピンチを救ってくれるとは限らないんだぞ。テストもない一発勝負だ。どんな目が出るか不安じゃないのか?」
「それはもちろん不安です。それでも、あえて楽観的に考えれば、装置がコピードの生まれた現象を逆に再現するのに成功して、コピードから再びあなたがた人類が生まれるかもしれないのです。ウイルスに十分対抗しうる、肉体的なバリエーションに富んだ人類が」
「悠長な!」私は吐き捨てるように叫んだ。「事態は急を要するんだろ? こうしている間にも、百人、二百人と被害者が続出してるんじゃないのか?」
「現在、世界中の科学者が緊密に連絡を取り合いながら、ワクチン開発に全精力を上げて取り組んでいます」
「だろうな。まあ、このままコピードが死に絶えようがどうしようが、私の知ったことじゃないが」
 スピカは押し黙り、しばらくは廊下を進む車いすのホイールが回る音だけが聞こえていた。
 研究室の扉の前に到着した。スピカは胸元からカードを取り出し、壁に差し込んでキーを解除すると、車いすを押して中に入った。
 室内は昨日と変わったところはない。昼間のせいで、窓からの光が、部屋を明るくしているくらいだ。
 私を部屋の中央に残し、スピカは装置のスイッチを入れて準備を始めた。
 静かな時間が流れる。
 私も何か手伝おうかと立ち上がった時、スピカが背中を向けたまま話しかけてきた。
「先ほどあなたは、この役割を志願した理由をお尋ねになりましたね」
「ああ、誰かがやらねば、と」
「その理由はウソではありません。でももっと大きな理由──いえ、個人的な動機があったのです」
 私は再び膝を折って車いすに腰かけた。
「聞かせてもらおうか」
 スピカは手を止め、宙を見上げた。
「私の両親はコピードではありません。あなたと同じ、いわゆる人類でした」
 最初のコピードが生まれたのは五十年ほど前。彼女は二十代だから、ありえることだ。
「長い間、両親はコピードを嫌って、一生子供を作るまいと思っていたそうです。ところが日々増えていくコピードの子供たちを見るにつけ、どうしても血を分けた子が欲しくなり──その結果、私が生まれたのです」
 そんな人類の夫婦もいたのか。
「父母はコピードの私を大層かわいがってくれました。それでも、ふたりの心の中にひそむ《この子がコピードでなかったら》という思いは常に感じていました。だから私はずっと父母に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
 返す言葉がない。
 彼女はこちらを向き、髪をかきあげながら力なく笑うと、
「これがこの役目を選んだ、個人的な動機です。──人類のかたがたは、あまり気づいてないようですが、外見も性格もそっくりなコピードたちも、その父母や生い立ちは違ったりするんですよ」
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