no.19 2086年1月4日 (6) |
|||
あの時のことを事細かに書くのはもうやめよう。でないと気が変になりそうだ。 逆に、正気を失うこともなく、よくここまでやってこれたものだと思う。私はほとんど無意識のうちにハンドルを操作していた。車に対する衝撃が繰り返されるうちに、思考も感情も麻痺していたようだ。 イカン、書くまいと誓ったばかりではないか! 私は乗せていた額をハンドルから引き剥がし、真っ赤に染まったフロントウィンドウの向こうを見やった。 研究所のある大学の正門。 門の前には、これまで以上に頑丈そうなバリケードと、数十人の警官の群れが、私一人の相手をせんと、手ぐすね引いて待ち構えていた。 最後の関門である。 計画では、車ごと強行突入するつもりでいた。しかし予想外の事態がそれを不可能にした。ガス欠ならぬ、電池切れである。 車は正門までおよそ百メートルの距離を残し、沈黙した。 私はサイドブレーキを引き、シートベルトを外すと、ドアをゆっくりと開いた。 正門に陣取っていた警官たちが、一斉にどよめくのが分かった。 さらに私の姿を認めると、全員が「おぉ」「うぅ」といった意味不明な声を発して、全員が同じ動きでのけ反った。まるでコントのように。 物心ついたころから、犯罪のない世界に生きてきた彼らだ。体裁だけ警官になったところで腰抜けぞろいだ。怖くもない。 だが、数の上では圧倒的に不利である。その気になれば、たちどころに逮捕されるだろう。 それでいい。 私も、もう十分にくたびれた。 残っていた最後の闘志は、車の前に身を投げ出したコピードたちによって、ズタズタに引き裂かれてしまったと言っていい。 醜く歪んだ車のボディがそんな私の心模様を反映している。ボンネットはいびつにへこみ、流れるような赤黒いしみが全体にこびりついていた。 ズルッ。ズルッ。 足を引きずりつつ、私は前進を開始した。 今さら逃げることなど考えもしていない。 最後の一人として、人類の意地と誇りを見せてやろう。 そんな気持ちがどこかにあったのかもしれない。 さらに前に出る。 武器もない。腕を振り上げる気力もない。声を張り上げようにも喉はカラカラだ。一張羅のコートはいつの間にか脱げ、スーツもあちこちが擦り切れている。唯一の持ち物であるリュックだけは、ずっと手放さず、今も左肩にかけている。 頬に冷たいものが触れた。雪だった。 空を見上げる。 不気味なほど無彩色の雲が厚くたれ込めていたが、舞落ちる雪の粒は、神々しいほど白く美しかった。 私はうれしくなって、頬をゆるめた。 やるだけのことはやったぞ。 今でも人類代表などと気取るつもりはさらさらない。ないが、私の小さなな抵抗は、装置完成を目前に死を遂げた、あの非業の科学者の業績と並び、軟弱なコピードの記憶に残るんじゃないかな。残す気があればだが。 何をとりとめもないことを。 苦笑いして一歩前進した時、心臓を締め上げるような激痛が走った。 たまらずに腰が砕ける。 悪寒が全身を駆け回った。 長年の引きこもり生活が祟ったな。この数日の無茶な行動が追い討ちをかけたのだ。 私は生まれつき心臓が強くない。だからスポーツを楽しんだ経験がほとんどない。友達ができなかった理由はそんなところにもあった。 頭からすーっと血の気が引いていく。 私は仰向けになって地面に倒れた。 顔に粉雪が降り積もる。その一粒一粒が体温を奪っていく。 もういい。このままあの世に行けたらいい。無粋で同じ顔をした警官どもに連行され、寒い留置場で息を引き取るより、はるかにマシだ。 「しっかりしてください」 ふいに女の声がした。 目だけを動かすと、明るい空をバックに、私の顔をのぞき込む華奢なシルエットがあった。 「──君は?」 「スピカです」 驚いた。ここで彼女と再会できるとは、想像も期待もしていなかったから。 スピカは細い腕で私の肩を持ち上げると、警官たちに向かって、すぐに担架を持ってくるよう指示した。 「しばらくお待ちください。すぐに研究所の中へお連れしますから」 私は耳を疑った。 「待て──君の好意はうれしいが、許されるわけがない。私は何十人ものコピードたちを轢き殺した殺人鬼だぞ。逮捕を邪魔すれば、君も公務執行妨害で──」 「お気遣いなく」 スピカはにっこり笑うと、 「あなたは罪に問われません」 「しかし現に、私は車で──」 「道路に飛び出した者たちがいけないのです」 彼女は意外なことを口にした。私は絶句したまま、彼女の次の言葉を聞いていた。 「それから、あなたを装置に近づけるなという命令ですが」 「………」 「撤回されました」 「撤回?」 どういうことだ。ワケが分からない。 まさか、例の優柔不断病が高じて、またもや彼らの判断がひっくり返ったとでもいうのか? スピカは私の心を読んだように、 「判断が二転三転して、軟弱この上ないとお蔑みのことでしょう。でも今回は違うのです。一口に言えば、状況が変わったのです」 そこまで言うと、やってきた担架に私を乗せるよう警官らに指示した。そして横たわった私の耳に口を寄せ、 「続きは研究室で。秘密を要することですので」 唇に指を当てたスピカは、ついと、さあらぬ体で、動き出した担架から離れた。 |
|||
|