no.14
2086年1月4日 (1)
 
 私は深い絶望の淵にいた。
 なぜ、こんなことに──。

 昨夜、眠りに落ちるまでは、今の私の状況を想定することなど不可能だった。昨日以上の緊張はあっても、すべてが事もなく運ぶものとタカをくくっていた。
 こんなことなら、昨日のうちに行動するべきだった。
 後悔が津波のように押し寄せ、老いて疲れた心を激しくムチ打つ。

 そもそも、今朝はいつもの朝食が運ばれてこなかった。
 不審に思って電話をかけると、留守番モードになっていた。窓から庭の柵越しにのぞいてみると、カーテンが細く開いていて、少年の母親の、困惑げな眼差しにぶつかった。
 計画では、朝食後すぐに出かける予定だったので、すでに準備万端整っていた。
 目的地。
 もちろん、昨日訪問した研究所である。
 考え抜いた末、私は装置を起動することを決心したのだ。
 装置を作り上げ、この世界の有り様を変えるために半生を捧げた男。彼とは生前一度も会うことなく、言葉を交わすこともなかったが、それでも私は彼の意気に感じるところがあった。
 彼の費やした膨大な時間を無駄にしたくない。
 彼の無念を晴らしたい。
 心変わりの理由は、苦笑したくなるほど単純だった。

 胸騒ぎを覚えた。
 私は急ぎ、家を出ることにした。
 服装は自分なりにきちんとしたくて、久しぶりにスーツに腕を通した。ワイシャツの襟がいささか変色していたが気にしない。一張羅のくたびれたコートを羽織ると、玄関の扉を開いた。
 ところが、門から一歩出たところで、待ち構えていた警官に呼び止められてしまった。
 犯罪の消滅したこの時代、警察の機構自体が縮小し、彼らの姿を見かけることも珍しかったのだが。
「どちらに行かれるのですか?」
 警官はもちろんコピードだ。緊張感を全身にみなぎらせている。
 背後にパトカーが停車していた。もう一人の警官が、視線をこちらに向けたまま、マイクに向かって何ごとか告げている。
「事件でもあったのか?」私はつとめて、ざっくばらんな口調で問いかけた。「逃げ出した凶悪犯がこの辺りに潜伏しているとか」
 しかし警官は、汗を浮き上がらせた顔で詰め寄ってくると、
「質問にお答えください。どちらに行かれるおつもりですか?」
 日頃は温厚な顔しか見せないコピードらしからぬ応対だ。もう一人もマイクを車内に戻し、近づいてくる。
 隠すこともない。私は行く先を正直に口にした。ところが警官は大きく目を見張ると、両足を開いて私の前に仁王様のように立ち塞がった。
「すみませんが、外出はご遠慮ください」
「なぜだ?」
「申し上げられません」
 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、二人は並んで圧力をかけてくる。
 ここに至って、ようやく私は勘づいた。
 コピードは方針を変えたのだ。
 装置を起動させないことに、私が装置に近づくのを阻止することに決めたのだ。優柔不断な彼らは、一晩経って怖くなり、方針を百八十度転換したのだ。
「どうか、お戻りを」
 二人は間合いを詰めてくる。
 私は肩をすくめると、
「分かったよ。家に入ればいいんだろ」
と笑いながら言ってみせた。
 すると彼らもホッとして全身から力を抜くのが分かった。
 その瞬間、私はアスファルトを蹴り、二人に向かって突進した。
 コピードたちがアッと声を上げた時には、二人は道路に押し倒されていた。彼らの手を振り切った私は、速力を上げ、開いたままのドアからパトカーに飛び乗った。
 幸い、エンジンはかかったままだった。
 ドアを閉め、「待て」という声を背に、サイドブレーキを下ろすと、アクセルを踏み込んだ。
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