no.12
2086年1月3日 (3)
 

 ぐったりとソファに身を預けていると、来客を告げる軽快なチャイム音が鳴り響いた。
 起き上がる気がしなかった。それでも二度三度と鳴る音に急かされ、尻をソファから離した。
 部屋の隅に行き、壁に並んだボタンのひとつを押す。小型ディスプレイに玄関の様子が鮮明に映った。
 隣家の少年だった。
「どうぞ」
 少年は「お邪魔します」と元気に挨拶して入ってきた。
 ちなみにこの時代、戸締まりの観念は世の中から一掃されていたので、扉にも窓にも鍵はない。
「明かりが見えたから、帰ってきたんだと思って」
 はにかんだ表情で部屋をのぞき込んだ少年は、当たり前のことだが、スピカに瓜二つだ。姉と弟と称しても通用するだろう。人類の価値観でもってすれば。
「夕飯、持ってきていいよね?」
「もうそんな時間だったか──頼むよ」
 少年はそれだけ聞くと、元気よくハイと叫んで、家を飛び出していった。何がそんなにうれしいのか、スキップするように飛び跳ねながら。
 すぐに少年は、岡持に夕食を入れて戻ってきた。
「今夜はおじさんの好きな、レバニラ炒め定食だよ」
と言いながらテーブルに並べてくれる。他にもサラダや冷や奴、小鉢の筑前煮なども混じって、いつもより豪勢だ。
 それとなく理由を尋ねると、
「朝食に間に合わないって、電話をくれたお姉さんが教えてくれたんだ。おじさんはきっとお腹ペコペコだともね」
 やはりそうだったか。
 食卓に付き、食事を始めたところ、いつもは用が済めば自宅に帰る少年が、今日に限って、居間のほうを大きな目を開いて注視している。どうやらテーブルの上のノートパソコンに興味があるようだ。
 世話になっているだけに、無下にはできない。
「触ってもいいぞ」
 言うと、少年はこれ以上ないほど瞳を輝かせて、パソコンの前にすっ飛んでいった。
 少年が──コピードの全少年少女が──パソコンに対して並々ならぬ興味をもっていることは知っていた。
 ただ残念なことに、コピードらはコンピュータに関する能力に長けているとは、お世辞にも言えなかった。
 だからこそ、少年は私のパソコン──極限までチューンアップされたF1カーのごときマシン──の画面に見とれているのだろう。ファイルを恐る恐る開いたり、ソフトを起動するたびに驚きの声を上げている。ソフトウェア制作会社勤務の経験のある私のパソコンだ。そんじょそこらのものと一緒にされては困る。
「これは何?」
 少年の指が画面をさしている。開いたままのディスクのウィンドウだった。
「昨晩、私が体験した大冒険の、唯一の獲物だ」
 少しばかりおどけて答えると、
「大切なものですよね。閉じておいたほうがいい?」
「いや、単なるガラクタだよ。ひと通りチェックしたら捨てるつもりだ」
「ふーん」
 少年はそれでも惹かれるものを感じるらしく、指先でポインティングデバイスを操り、ウィンドウの中のファイルのひとつをダブルクリックした。
 途端に、無意味な文字の羅列が、次から次へと画面に溢れ出した。
「わ、わ、壊れた!」
「ハハハ、違うよ、君が暗号化されたファイルを無理矢理開こうとしたから──」
 私は言葉を切った。
 不審に思った少年が、こちらを振り返った。
 私は凍りついたように、ディスプレイに流れる文字の奔流をにらんでいた。
 ポン。
 間の抜けたパソコンの内蔵音が、事の終了を知らせた。
 私は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、ソファを飛び越え、ノートパソコンの画面にかじりついた。少年が怯えた様子を示したが、それどころではなかった。
「こ──こんなことが!」
「どうしたの?」
 問題のファイルは『解読不能』とネーミングされていた。
 彼らは解読することができなかった。
 すなわち、このファイルはコピードに発見されて以来、ずっと未開封だったのだ。
 それがいま、解読完了を知らせるベルとともに、眼前にその内容が展開されていた。
 事態の原因は明白だ。
 私のパソコンには、数多くの高機能、高性能ソフトがインストールされている。ほとんどが会社勤めの時に獲たもので、中には高機能過ぎて、公開すれば世間によからぬ影響を与える怖れのあるものまである。
 少年がファイルをダブルクリックした時、そんなソフトのひとつ、暗号解読ソフトがたまたま起動したのだ。
「ねえ、どうしたのさ?」
 少年はもう一度問いかけてきたが、私の耳は聞いていなかった。
 ファイルに隠されていたもの。
 それは、あの科学者たちの研究グループが、互いにやりとりしたメールの記録だった。
 スクロールを試みる。途方もない量の文章が、そこには並んでいた。
 気づくと、私は自分の名前で検索を掛けていた。
 虫が知らせた。そうしか言いようがなかった。

 そして──ヒットした。

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