車は住宅地へと差しかかった。
「ここらで下ろしてくれ。歩いていくから」
そう言うと、スピカはさほど広くない公園のそばに愛車を停めた。
私はドアを開け、よっこらせと掛け声をかけながら、アスファルトの上に両足を下ろした。
さてと。
何と挨拶すればいいのか。
あらぬ方角に顔を向けたまま躊躇していると、
「もうお会いすることもないでしょうね」
とスピカから話しかけてきた。
「そうだな……たいへん世話になった」
顔も見ずに、それだけ言って歩き出すつもりだった。多少礼儀に欠けても、どうせ相手はコピードだ、気にする必要はないのだ。
「どうかお元気で。たまには戸外にも散歩にお出になってくださいね」
私はつい舌打ちをしそうになった。
よけいなお世話だ。コピード風情がいっぱしの口を利くな。研究所から、馴染みのある団地に戻ってみると、普段抱えている反感が、隠れていた心の片隅から込み上げてきた。
しかし、世話になったことは確かだ。だからこそ後ろめたくもあって、よけいに腹立たしい。
頭を掻きつつ、さりげなく顔を向けると、運転席の向こうに降り立ったスピカが深々とお辞儀していた。
その頭が上がった時、おやと思った。
額に赤い筋が一本。
そうか。私が倒れた時、指先の爪が当たったのだ。
罪悪感が遠雷のように脳内をかすめた。気づくと、我知らず、言葉が出ていた。
「そうだ、聞き漏らしたことがある」
「うかがいましょう」
後悔した。とくに聞きたいことなどない。しかたなく、
「……結局のところ、私の今回の行動は、コピードたちにとって期待はずれだったんだろうな」
「そんなことは」
「いや、きっとそうだ。私が装置を起動していれば、この世界に何らかの変化を及ぼしたはずなんだからな。とはいえ、ザ・デイに隕石によって破壊された原子力発電所に比べたら、はるかに小出力のあの原子炉でどれだけの効果が期待できたことやら、大いに疑問だけどな」
スピカの顔を盗み見る。するとスピカは運転席のドアポケットに入れてあったハンドバッグに手を伸ばし、中を開いて、丸く薄いケースを取り出した。
「これを差し上げます」
それは磁気ディスクだった。
「ここにすべてが記録されています。開発した、あのかたが亡くなられた時、胸ポケットに入っていました。それはオリジナルです。コピーは取っていません」
すべての記録。
一科学者の血と汗の結晶が、たった一枚のディスクに収まっているのか。
しかし──
「こんな大事なもの、私がもらったって、しかたがないだろう」
「いいえ。あなたが受け取ってくださったほうが、あのかたにとっても本望でしょう。それに……」
スピカはひとつ頷くと、
「原子炉の規模に関するあなたのご指摘はもっともです。我々の調査班にも、その点を解明することはできませんでした。装置の内側は完全なブラックボックスになっているので、どうにもなりません」
「すると彼にとって、あの場所での実験はあくまでも第一段階で、成功すればより大きな原子炉を使って、本格的な装置を作るつもりだったんじゃないかな」
「原子炉はスケールアップできても、隕石の代わりは不可能です」
「ああ、そうか」
スピカは私に近寄り、捧げるように両手でディスクを私に差し出した。
「それじゃ、記念ということで、ありがたく受け取っておくよ」
丁寧すぎるほど腰を曲げてお辞儀を繰り返したスピカは、愛車とともに、眩しい朝陽の中を帰っていった。
私は公園を横切り、朝の早いコピードの老人たちに会わぬよう、裏道を通って自宅へとたどり着いた。
玄関で靴を脱いだ瞬間、徹夜の疲れが一気に押し寄せてきた。私は居間に入ると、倒れるようにソファに身体を投げ出していた。
目覚めると、傾いた夕陽が閉じた雨戸の隙間から差し込んでいた。
グウと腹の虫が鳴った。動く気はしなかったが、空腹には勝てない。
悲鳴を上げる関節をなだめすかし、重い身体をソファから持ち上げた。すると、テーブルに放り出していた磁気ディスクが夕陽を反射して、キラリと目を射た。
とりあえず、冷凍庫から取り出したピザを電子レンジで温め、インスタントコーヒーを入れた。次に、ノートパソコンを書斎から持ってくると、キッチンのテーブルに、どかっと腰を落ち着けた。
ノートパソコンのトレイにディスクを挿入する。
画面にファイル一覧が現れた。その中から、とりわけファイルサイズの大きなムービーデータを選び、ダブルクリックした。
画面に、画質の悪い映像が浮かび上がった。映ったのは、あの研究室だった。天井近くにカメラが設置されていたのだろう。広角レンズを使って、床のほぼ全面が捉えられている。
例の装置は今日と同じ場所に鎮座していたが、組まれた足場がその上にかぶさっているのが違っていた。
よく見ると、装置の基部に、白衣姿の小柄な男がいた。どうやらメーターの数値を読み取ろうとしているらしい。
しばらく動きがなかったが、突然、画面が激しく縦に震動した。「地震だ」という叫びが聴き取れた。
揺れる映像の中で、足場のひとつがガクンと傾いた。そこに載っていた金属製の通路が横滑りし、床に落ちていった。落下地点には白衣の男の頭がある。
悲鳴。折り重なる金属音。
揺れが治まった時、足場の下敷きになった白衣に動きはなかった。まばたきも忘れて見ていると、彼の白衣が徐々に赤く染まり始めていた。
再生を止めた。
ウィンドウを閉じ、開いた両手で顔を覆った。しばしの黙祷を彼に捧げた。
おそらくは即死だったろう。それが唯一の慰めか。
手をどけると、戸外の光は失せ、部屋は真っ暗闇だった。パソコンの画面だけが異様な光を放っている。
私は立ち上がって、壁の電灯スイッチを押した。
それにしても、聞いていたのと実際に目撃するのとでは、こうも印象が異なるものか。つい半日前に現場にいたせいで、よけいに衝撃の度合いが強いのだろう。
いや、違う。
ショックを受けた最大の理由は、彼が私と同じ、人類だったからだ。
TVニュースでは、日々さまざまな事故による死傷事件が報道されている。被害者はどれも皆、コピードたちである。当然と言えば当然のことだ。
そんなニュースに接したところで、私はどんな感慨を抱くこともなかった。コピードの死は、たとえどれほど悲惨なものでも、動物園の動物が死んだという程度にしか感じられなかった。
だが、あの白衣の科学者は、まぎれもなく同胞だった。
ある時点では、彼と私は、地球最後のたったふたりの人類だったのだ。
ふうと息を吐き、呼吸を整える。
パソコンの前に座り直し、膨大なファイルのチェック作業を再開した。
科学者である彼がおこなおうとしていた実験。
コピード出現の時と、真逆の状態を作り出すこと。
私は知りたくなった。
なぜ彼は、そんな研究に着手する道を選んだのか?
いったい彼は、どのような人物だったのか?
映像から察するに、彼もひとりで装置開発に挑んでいたに違いない。もちろん、コピードに手助けを求めるわけにはいかない。あの時点なら、彼はきっとコピードの妨害を受けると考えたはずだから。
ふと、疑念が湧いた。
彼は生前、唯一の同士である私に対して、援助を求めようとはしなかった……。
なぜだ?
そこまで秘密主義を貫きたかったのか?
私は時間を惜しむように、次々とファイルを読み進んだ。ピザもコーヒーもすっかり冷めていた。
書類のほとんどは、装置を構成する部品の図面だったり、部品購入の見積もりや領収書だったりした。たまにあっても科学者自身の覚え書きのようなテキストファイルで、門外漢には意味不明の内容ばかりだった。
それでも根気強く調べていくうちに、意外なメモを発見した。それは、彼が誰かと連絡を取り合っていたことを表したものだった。
メールソフトの受信フォルダが空なのは、証拠を残さないよう、科学者自身が読み終えるたびに消していたのだろうが、さすがに覚えきれない事項があって、ついつい書き残してしまったらしい。
「M君、担当モジュールの動作確認、三日延長を要求」
「U君、起動パラメータμの下方修正、OKとのこと」
意味はやはり不明だ。しかし彼以外の人物(おそらくは人類)の関与を裏付けるものといっていい。
装置の規模からして、素人目にも、とても単独でできる仕事ではないとは思っていたが。
などと考えていたら、さらに具体的なメモを発見した。
「U君、風邪でダウン。食事当番ローテンション、ずらす必要あり」
明らかに、彼のそばには、仲間がいたのだ。
ホッとすると同時に、反発を感じた。
私は彼らに「嫉妬」した。
なぜ彼は、私に呼びかけなかったのか?
食事の用意はできなくても、買い出しぐらいには役に立つことができたのに……。
ソファの背もたれに背中を押しつけ、深いため息をついた。
人類滅亡の土壇場まで、私は仲間はずれだったというのか。 |