no.10
2086年1月3日 (1)
 

 扉を開け、廊下に出ようとしたところで、またもや目眩に見舞われた。今度は先程とは比べものにならないほどのひどさだった。我慢できず、私は戸口と扉にはさまれた形で床にうずくまった。
「大丈夫ですか!?」
 スピカの声が駆け寄ってきたが、視界がブラックアウトし、何も見えない。まるで深海にいるような気分だった。絶え間なく上下前後左右が入れ替わる責め苦は、地獄の苦しみだった。
 暗闇の奥底でゆらゆらとうごめくものがいる。海藻を思わせるそれらは、次第に私のほうへと近づいてくる。それらは細長い形状をしており、途中で三本に枝分かれしていて、頭部と両手を連想させた。
「く、来るな、あっちへ行け!」
 やみくもに腕を振っても、自分の腕すら見えない漆黒の闇ではどうしようもない。
「痛っ」
 スピカが小さな悲鳴を上げた。私の腕が彼女に当たったらしい。思わず腕をすくめる。しかし海藻はそんなことにお構いなく、ゆらめきながら私を押し包もうとする。
 私は大声を張り上げた。頭が爆発しそうだった。心臓に絞られるような痛みが走った。それでも叫ぶのをやめなかった。
 そのまま、海の底に引きずり込まれるように、腰から崩れていった。

 どれくらい経ったろう。
 目を開くと、一面が灰色の海だった。
「うわわっ」
 悪夢の続きか。そう思って顔の前に上げた手の平を目が捉えた。今度は見える。見えている。
「お気づきになられましたか」
 そばで、スピカの安堵した声が聞こえた。
 ここは? と、視線をさまよわせると、心配げにのぞき込む彼女がすぐ横にいた。
「一階の医務室です。ベッドがあるのはここだけなのでお連れしました」
 灰色の海と思ったのは、剥き出しのコンクリート天井だった。
「どのくらい気を失っていた?」
「30分ほど」
 私は手を動かして布団をはいだ。寝かされていたのは、何の飾りっけもない、医務室によくある無機質なベッドだった。
「お加減がよくなるまで、ここで寝ていてください」
「そんなわけにもいかん」
 頭を左右に動かしてみる。幸い、目眩は治まっている。胸はどうだ。手を当てると、かすかな痛みが残っているが、動悸は平常に戻っていた。
 私はぎこちなく上体を起こした。肘や腰のじわりとする痛みは、倒れた時のものだろう。
「本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
 胸元までかけられていた布団をよける。身体を回し、ベッドの上に座った状態になってみた。肩や腕を動かしてみる。大丈夫そうだ。頭の中もすっきりしている。わずかな時間でも眠ったのが効いたらしい。
「お帰りになられるのでしたら、しばらくお待ちください。車を持ってきます」
「いや……ここまで乗ってきた自転車があるから」
「無断で借りられたものですね?」
 バレていた。コピードの連絡網は侮れない。
「ここで待っていてください。玄関に私の車を回しますので」
 返事するいと間もなく、スピカはドアから飛び出していった。

 彼女が戻ってくるのを待つ間、ここまでにあったことを手早く日記にしたためた。
 今日は1月3日だ。新年が始まってまだ間もないというのに、もう数週間が過ぎたような錯覚に陥る。それは昨夜がどれだけ波瀾万丈な夜だったかの証拠だし、昨年までの数十年がいかに退屈な日々だったかを表していたと言えるだろう。

 朝の陽射しを浴びる直前の、まだ薄暗い街なかを、スピカの愛車であるパステルグリーンの軽が走っていく。
 コピードはみなパステルカラーが好きだ。乗る車も特に小型車を好む傾向にある。
 私は他人の運転する車に乗るのは数十年ぶりだったし、ましてやコピードの横に乗るのは初めてだった。
 自転車は責任を持って持ち主に返却しておきますと、スピカは請け負った。
 しまったと、私は小さく叫び、腕時計に目をやった。八時五十五分。
「朝食のことでしたら、私が連絡しておきました」
 驚いて顔を上げると、スピカは前方を見つつ、にっこり笑い、
「隣りのお家のかたの伝言は、あなたの朝食を取り置いてますとのことでした」
「そうか……手間をかけさせたな」
「いいえ、このくらいでしたら」
「それから……倒れた私を介抱してくれたこと、礼を言わねばならんな」
 スピカは、いいえと小さく答えた
 車は、私が自転車で真夜中に走った道を逆走していく。すれ違う道ばたで、時おり、コピードを見かけたが、みな一様にこちらを見ると、判で押したように、にっこりと微笑みを浮かべながら手を振っていた。

「ひとつ、教えてくれ」
「どうぞ」
 小さめのシートの上で、私は軽く咳払いした。
「研究室で私が帰ると告げた時、君は変な顔をしたな。まるで私の行動が想定外だったと言わんばかりに。違ってるか?」
「……違ってはいません」
 彼女が返事するまでに、交差点を三つ通過した。
「やはりな」
 私が目線で説明を促すと、小さいため息のあと、スピカは根負けしたように口を開いた。
「我々は決めていたのです。あの装置を動かすも動かさないも、あなた次第だと」
 想像していたとおりだ。スピカは続ける。
「お話ししたように、我々は未来について決して楽観してはおりません。かといって、どうすればいいのかも分からないでいます。決して我々は見てくれの表情ほど、心穏やかではいないのです」
 ハンドルが切られ、タイヤが軋み音を上げる。車体は大きく傾きながら、高速の入口へと突進した。
「コピードは彗星を母とし、原子力発電所を父として生まれました。それも、偶然による事故という形で。そう、コピードの誕生はまぎれもなく、宇宙万物の摂理に反していました。……そんな我々が頼りにできる主義主張も哲学も、さらには宗教もどこにもありませんでした。悩みぬいたあげく、たどりついたのは『なりゆきにまかせよう』という境地だったのです」
「なりゆき、だと?」
 呆れてスピカを見る。人類に代わって地球を支配しようとする種族が掲げるには、あんまりなスローガンではないか。いくら絵に描いた優柔不断な性分だとはいえ。
 しかし、スピカはハンドルを握った手に力を込めたまま、毅然とした視線を前に向け、
「だから、あの装置を動かすかどうかは、あなたの判断に委ねていました」
「何だと? もし装置が正常に作動すれば、自分たちの身にどんな異変が起きるか、知れたもんじゃないんだぞ。それでもいいのか?」
「かまいません。コピードが到達した見解です」
 無性に腹が立ってきた。
 自らの運命を人まかせにする、そのあまりに脆弱な精神に憤りを感じたのだ。そんなことでは、滅亡した人類は浮かばれない。
 いや、人類が浮かばれようがどうしようが関係ない。私には興味がない。だからこそ装置を前にして、平然と帰途についたのだ。
 建物の間から、刺すような朝の陽光が、車のフロントウィンドウを輝かせた。

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