no.9
2086年1月2日 (6)
 
「憎む?」
 私は床の一点を見つめながら、薄くなった頭髪を掻きあげる手をとめ、相手の言葉を繰り返した。
 スピカは深呼吸を一つして間を取ると、ゆっくりと話し始めた。
「先にお詫びしておくことがあります。じつは、当局は以前よりあなたについて詳しい調査をおこなっておりました。私もつい今しがた知ったのですが」と、右手の指先を自分のこめかみに軽くあてつつ、「あなたは会社にお勤めの頃、提出した定時レポートで大きな記載ミスをしてしまい、会社に大きな損害を与えてしまったことがありますね」
 絶句した。
 いや、考えてみれば、コピードが最後の人類である私に興味を抱くのは当然である。どうやらスピカは、私の過去に関する情報を、他のコピードからテレパシーによって伝達されたらしい。
「なるほど、あなたはその件に責任を感じて、自ら退社を願い出たのですか。その際、会社は引き止めるようなことはなく、退職金さえ損害を補填するという名目で、一円も出なかった──」
「………」
「でも、あなたの与えた損害は、会社の規模からすると、決して取り返しのつかないほどではなかったと思われますが」
「自分が許せなかったんだ。それだけだ」
 私は吐き捨てるように言葉を返した。だが、スピカは瞑想するように目を閉じ、朗読調のまま、唇を動かし続ける。
「会社側もどうやら余剰人員を減らしたかったみたいですね。そのため、あなたの依願退職は渡りに船とばかり、すんなりと受理された。あなたはこのことを知りませんでしたか?」
「噂には聞いていた。が、今さらどうでもいいことだ。結局、私という人間は、組織にはなじめない性格の持ち主らしいからな。辞めることができて、清々してるくらいだ」
「──待ってください。あなたはミスを犯す直前、病院の精神科を受診していますね。食欲がなく、夜も眠れないなどの症状を訴えて」
 今度は私が目を閉じる番だった。個人情報の保護という概念は、コピードたちにとっては過去の遺物に過ぎないのだ。
 スピカは聞き耳を立てるように、顔をわずかに傾けると、
「──なるほど……結婚式の直前に、婚約者が一方的に婚約を破棄し、別の男性のもとへ走った、と」
「もういい。やめてくれ」
 私は椅子を蹴って立ち上がり、机の上に放り出したままのドライバーに手を伸ばした。
 さすがに彼女も身体を強張らせ、口をつぐんだ。私は怒りを腕に込めると、部屋の隅めがけてドライバーを投げつけた。コーンと鈍い音が響き、部屋にはまた静寂が戻った。
「そんなに私のことが知りたいなら、包み隠さず教えてやろう。憎いかどうかと訊かれれば、鬱陶しい、と答えるだけだ。私以外の人類という存在がな」
 心の中のタガが、ピンと音を立てて跳ねとんだ。
「端的な例を挙げよう。ホノルルに集まった奴らの中に、有名な映画監督がいた。彼は残り少ない人類の姿を記録したノンフィクション映画を撮ろうと思い立った。彼がそう思いついたのには理由がある。ホノルルの日本人村では人口が減るに連れ、互いの結びつきをより強固なものにするため、結婚や養子縁組が過剰なほど繰り返されていた。つまり、誰かは必ず誰かと家族関係があったわけだ。しかし、それならそれでいい。私がどうのこうのと言う筋合いはない。映画だって好きなだけ撮ればいい。私には関係のないこと──のはずだったんだ。ところがだ、ある日、その監督がわざわざ私を訪ねてやってきた。彼は開口一番こういった。映画に出てくれ、と」
「監督自ら、あなたに直談判を?」
「そうだ。彼の頭の中には、『頑固にも仲間との交流を断って暮らす日本人が、最終的には日本人村の人々と合流する』というストーリーがあったらしい。リビングに迎え入れたら、途端に質問攻撃だよ。どうしてコピードだらけの町で暮らし続けるのか。なぜホノルルに来ないのか。今こそ来るべきだぞと。監督には『面倒くさい』という言い訳は通用しなかった。彼はしきりに訴えたよ、日本人村がいかに素晴らしいかを。すでに住民は高齢者ばかりになっていたが、みんな人類としての誇りを胸に、人と人のつながりを大切にしながら、支え合い、かばい合って暮らしている。全員が親子であり兄弟姉妹である。これぞ人類の真の姿ではないか。──そう、彼は家族教の信者だったんだ」
「………」
「監督は言った。この映画は、君たちがホノルルに来ることで完結する。向こうには住む家も既に確保しているし、引っ越しにかかる費用も出すから、夫婦いっしょに今すぐ来てくれと」
「夫婦?」
「ああ」私は自嘲気味な笑みを禁じ得ず、「監督は私について、誤った情報を持っていた。婚約解消などしておらず、夫婦でひっそり生活していると思い込んでいたらしいんだな」
「………」
「独り暮らしだと知るやいなや、監督は手のひらを返したように態度を変えた。お化けにでも出くわしたような顔で私を見たよ。じっさい、彼の価値観では私の人生など認めたくなかったんだろうな」
「………」
「その時、監督のつぶやいたひと言が忘れられない。彼はこう言った。『映画にならん』」
「それはどういう……」
「あの監督はね、ヒューマン・ドラマの巨匠と呼ばれた人で、一貫して人と人の絆というものをテーマに、作品を世に問うてきたんだ。その根本には、人は助け合い、信じ合うことで困難に立ち向かっていくことができる、そんな性善説が厳然として存在した。だから、私のような者が映画に登場したって、感動的なお話にならないんだとさ」
「監督さんは、そこまでおっしゃったのですか?」
「失礼極まりない話だろ? だから私も、売られた喧嘩ということで買わずにはいられなかった。『予定では、ノンフィクション映画だと聞いているが、ありのままの真実を伝えたいなら、私も出してくれないか』とね」
「監督さんは何と?」
「無理だ、と首を横に振られた。だからさらに言ってやった。『結局あなたは、肉親の愛情といった安易な方法論でお涙頂戴の作品を量産する、幇間作家でしかないのか』とね」
「……そうしたら?」
「無言のまま、帰っていったよ。後日、ネット公開された作品を観たが、私のことには一切触れられていなかった」
「………」
「あの時は、やりとり自体が不愉快な口論で終わったせいで、しばらく腹の虫が治まらなかったが、監督の言い分も分からないではないんだ。しょせん、誰とも関係を持とうとしない変人は、物語の登場人物には不向きだよな。なぜなら劇的な展開など望めないからね。といっても、映画嫌いなコピードの君には理解できないかもしれないが」
「理屈の上では理解できます」
 ふと、目眩を感じた。時刻はすでに夜明けが近い。話を締めくくろうと、咳払いをして、
「さっきの質問に答えよう。私は誰も恨んではいない。かつての上司も、逃げた婚約者も、最後の映画監督も、みんなこの世にはいない──。知ってるか? 日本には、亡くなった人のことは決して悪く言わないという伝統があるんだ。そして私も日本人のひとりだ」
 スピカは小首を傾げたが、私は話はおしまいだとばかり立ち上がり、リュックを持ち上げ、
「そろそろおいとまするよ。長らく邪魔したな」
 すると彼女は眠りから覚めたように目を剥き、
「帰る……のですか?」
「ああ、もうここには用もないしな」
 スピカが原子炉のほうに視線を流した。つられて私も顔を向けたが、すぐ彼女に目を戻し、首を横に振った。
 彼女はさらに何か言いかけたが、私はそれを手で制止して部屋を横切り、ドアに手をかけたところで振り向いた。
「いろいろと教えてくれてありがとうな、スピカさん。名残は尽きないが、隣りん家の子が朝ご飯を持ってきてくれた時に私がいないと、彼はきっと途方に暮れるだろうからね」
 こうして私は研究室を後にした。
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