no.7
2086年1月2日 (4)
 
 組んだ両手のひらが、じっとりと汗ばんでいた。実験棟の中は、適度な室温に保たれているようだが、緊張感のせいか、はたまた慣れない行動のせいか、気づくと全身がべとつくほどの汗にまみれていた。
 着たままだったコートを脱ぐ。すると、こもっていた体温が空中に四散し、身体の疲れが幾分やわらいだような気になった。同時に頭の中のもやもやも消えていく思いがした。
 スピカはうつむいたままだ。まるで私がいじめているような気がしてくる。根負けだ。こちらから言葉をかけてやろう。そう思った時、すっと顔が上がった。
「心臓の具合はいかがでしょうか。落ち着かれましたか?」
 アッと思った。彼女は私の身体を知っている。
 毎日の健康診断データは、彼らコピードに筒抜けだったということだ。彼女は私の心臓を思いやって、話の続きを一旦停止していただけだった。
 コピードはコピード。彼らには人類のような、深い感情といった類いのものが欠落している。それでも彼らが感情的に見える時、それは彼らなりの理屈が顔面の筋肉を動かし、声を変えさせているだけなのだ。人類と同じ尺度で見てはいけない。足元をすくわれるぞ。
 変な汗が背中をつたった時、スピカは話を再開した。
「実験装置を機能しないようにしてしまう方策は、いくつか検討されました。でも結局、何もしないことに決めたのです。理由は…とても一口では申せません」
 スピカが初めて言いよどんだ。
「ここまで来て、言えない、はないだろう」
 いえ、違いますと首を横に振る。思い出せば、コピードは皆、意思を表すとき、必ずと言っていいほど首を動かす。それは昔、土産物屋で見た首振り人形を連想させた。
「明確な方針を打ち出すことができずにいるのです。人類の遺産は我々にとって、間違いなく貴重なものだから、未来永劫、アーカイブとして残すべきだという考え方。逆に、我々は人類の進化した、次の生命体だという自負から、過ちの多かった人類の歴史はことごとく消去してしまうべきだという考え方。コピードは相反するこのふたつの考え方の間で悩んでいるのです」
「−−つまりは結論を先延ばしにして、ここを放っておくことにしたってわけか」
「そうです。だから、装置に関する資料や文献、データもすべて保存してあります」
「保存だと?」私は声を荒げた。「10年前より以前の記録は抹消するっていうあの法律は、ここじゃ適用外なのかい?」
「お怒りはごもっともです」スピカは頭を膝につくぐらい腰を折り曲げた。「ご説明しましょう。ご存知のとおり、コピードは老若男女を問わず、コピーしたように同じ人格と性質を持っています。思考回路も全く同じですから、会議でもほとんど議論になりません。だから、誰かがミスをすれば、すべてのコピードが同じミスをする可能性が極めて高い。そのため、これまでどれほどの失敗を重ねてきたことか」
「だろうな」
 ぶっきらぼうに合いの手を入れたが、彼女は気にせず、続ける。
「病気に関してもそうです。ひとりがインフルエンザにかかれば、感染者は風の吹くようなスピードで全世界に広がるでしょう。だから我々は特に医学に力を入れ、日々監視と研究に努めています」
 初耳だった。だが言われてみれば当然のことであり、コピードにとっては何より最優先の課題には違いない。
「元来、臆病で小心者のコピードは、何事においても慎重です。そのようなわけで、我々は、我々にとって異分子的存在や異なる考え方というものを排除することはしていません。いつそれが役に立つかもしれませんから」
「すると…法律自体、私を騙すためのハッタリでしかなかったんだな?」
「そう言われては心苦しいです。確かにあれは、あくまでもあなただけに向けられた法律で、他の場所では、一切の記録をすべて大切に保管しています」
「人類も舐められたもんだな。コピードですと優しい顔をしていながら、都合のいい法律でこっそり私を騙し、人類の遺産をちゃっかり奪い取ろうという算段だったんだからな」
 私は歯を軋ませて、天井を仰いだ。

「あなたは地球上に残った最後の人類です」
「今さら言われなくても」
「それでは、先ほどお話したことで、あなたが我々にとってどれほど貴重な、いいえ大事な存在なのか、お分かりいただけますね?」
「特別天然記念物みたいなものだからな」
「当初は、そんなあなたが危険な目に遭ったりしないよう、自宅に軟禁しておくべきだという考え方が主流でした。しかしここ数年、それも不自然であると。あなたが行動したいようにさせておくのが、我々本来の考え方に合致するのではないかという主張が支配的です」
 主張といったって、みんな一緒じゃないか。
「そう、我々はつまるところ、優柔不断なのです。つねにあっちへこっちへと気持ちがブレる。それがひとりではない、何十億が一斉に同じ方向にブレる。あなたにその苦しみを理解することができますか?」
「地球最後の“ふたり”、か」
「えっ」
「いや…人格という意味では、この世界に生きているのは、私と、それから“君”だけってことも言えるわけだな」
 スピカはうんうんとひとりうなずいている。今頃、世界じゅうのコピードたちが同じ姿勢でうなずいていることだろう。
「話を戻そう」。私は助け舟を出すことにした。「私がここを突き止め、こうしてやってくる可能性を君たちは考慮していたし、こうして侵入することも、あえて許容したということだな? 私の行動パターンを観察するために」
 素直にはいと答えるスピカに、私は最後の疑問をぶつけてみた。
「それじゃ訊くけど」。私は原子炉を見上げた。「コイツはいったいどんな実験をしようとしていたんだ? いやその前に、コイツを完成させた奴は、結局、実験を行わなかったのか?」
 彼女は居住まいをただした。
「お答えします。彼は実験装置を完成させはしたものの、不運にも建設資材の下敷きになって、あえない最期を遂げたのだそうです。まさに、この場所で」
「……」
「ところが、彼はよもやの場合を想定して、自分が一定期間、パソコンにアクセスしなければ、あなたのサーバーに例のファイルを送付するようにしていたらしいのです。もちろんただ送ったのであれば、途中で我々に気づかれる恐れがあるので、暗号化した上でですが」
「なぜ私なんかに…」
「彼が地球最後から、二人目の人類だったから」
「ああ」
 突然、私はえもいわれぬ感慨に打たれた。
 見ず知らずの人間が、私にメッセージを送りつけていたとは。あのファイルには彼の意思が込められていたのだ。
「もうひとつのご質問にお答えしますと、この装置がやろうとしていたのは、どうやら、かつて起きたことの再現らしいのです」
「というと?」
「ザ・デイ。つまり、あの日起きた中国の原子力発電所の事故による放射能漏れ、加えて、巨大彗星がこの地球にばら撒いた未知の物質。彼はその物質を採取し、この原子炉に閉じ込めました。そしてこの物質を、2034年に起きたのとは逆方向に加速し、反応させることで、人類を復活させられるのではないかと……」
 彼女は言葉を切った。よほど私の顔色が変わっていたものと見える。
 なんという大胆で驚嘆すべき実験。
 私は目のくらむ思いがした。
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