no.5
2086年1月2日 (2)
 
 午前6時20分。
 急転直下、事態は予想もしない方向に発展した。
 今いるのは、さっきとは別の建物。同じキャンパス内にある原子炉工学科の実験棟だ。
 時間がないので、あれからのことを急いで記す。

 八方塞りの状況に、肉体的な疲労も重なり、深々と椅子に腰を下ろした私は、そのまま動けなくなってしまった。少しうたた寝したかもしれない。
 そんな夢うつつの中で、ひたひたと廊下を近づいてくる足音を耳が捉えた。続いて扉が開き、部屋の明かりが灯された。
 間一髪、私は机の影に身を潜めた。
 突然のことに、心臓が止まる思いがした。じつのところ、私は心臓に持病を抱えている。ここまでの冒険だけでもかなりの負担をかけているというのに、突然の侵入者は私を殺しかけたのだ。もっとも侵入者は私のほうなのだが。
「こんばんは」
 鈴のような声が研究室に響いた。女性だった。
「わたしの名は、F20600225-3EAD4E3。通称スピカです」
 声は姿の見えない私に向かって自己紹介した。Fは女性を表し、続く数字は生年月日およびその日何人目に生まれたかの通し番号を16進数で表したものである。もちろん、コピード特有のIDだ。
 律儀にスリッパに履き替えなくてよかった。私はスニーカーの足音を立てないよう、並んだ机を盾に横へと移動する。
「きっと、いつかはここに来られるものと確信していました」
 スピカと名乗るコピードはは姿の見えない私に対して、朗読でもするような口調で淡々と話し始めた。
「今夜、この建物にいるコピードはわたしだけです。あなたの来訪は、熱感知システムが教えてくれました」
 熱感知システム? その前に、彼女は私の侵入を確信していたという。どういうことだ。
「そうです」私の心の声に応えるように言う。「だからこその『記録抹消令』だったのですから」
 思わずうめき声が漏れた。あの性急な法律は、私に対するものだったというのか?
「とはいえ、来てくれる確率は1%以下という予測でした。あなたがあの情報を目にする可能性は、とても低かったはずなので」
 あの情報。どうやら、コピードの秘密を解明したという文書のことらしい。さらに机の横をすり足で移動する。
「でも、あなたは見つけてしまった。見つけたあなたが行動を起こす可能性、これも大変低いと見積もっていました。ところが蓋を開けてみると、侵入はこんな夜更けにおこなわれた…。何があなたを突き動かしたのでしょうか。とても興味があります」
 彼女は個人的な感想を述べているのではない。コピードの意識は互いにつながっているから、彼女の話は全コピードの総意を代弁していることになる。しかし、「興味を惹かれる」とはどういう言い回しだ。癇に障る。コピードのくせに上から目線じゃないか。
 コツッとひとつ足音が鳴った。私は弾かれたように身体を硬くし、机の角を曲がった。ほぼ四つんばいのままで。
「さて」スピカは短く言葉を切った。「そろそろ出てきてもらえませんか? 向こうに応接間がありますので、そちらでお話しましょう。決してあなたに危害を加えたりはしません。それにご安心ください。わたしは一人です。他には誰も応援に呼んだりしていません」
 彼女が言い終える前に、私は動いた。自分でも驚くほどの俊敏さでスピカのそばに駆け寄り、彼女の喉元に右手に握ったマイナスドライバーを押し当てた。さっき、しゃがんだ際に机の下にあった工具箱からつかみ取っておいたのだ。
「あっ」
 スピカは小さな叫び声をあげた。反撃は予期していなかったらしい。
「騒ぐな」
 かすれた声で私は慣れない脅し文句を口にした。彼女の首に巻きつけた左腕に力を入れる。
 スピカと名乗った女性は身長160センチくらいの中肉中背。もっともこれは同年輩の女性コピードに共通した体型だ。そしてポニーテールにした髪の下は、使い込まれた感のある白衣。
 すばやく体勢を整えて、戸口のほうに目を走らせる。廊下に人の気配はない。
 なんという事態になってしまったのか。
 心臓にキリリと痛みが走った。
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