− 第146回 −
第六章 光の河III 48
 タンクは本をどけ、重い机を力まかせに動かした。波多野は口から血を吐いていた。タンクは彼を抱えて暖炉へと這うように戻った。チラリと投げた視線の先に、壊れたシャッター越しの金庫が見えた。未練はあるが、命あっての特ダネだ。
「ホーダイ、おまえ怪我はないか?」
「大丈夫っス。カメラも無事ス」
 暖炉は三人の体で満員だった。波多野守は気を失っており、だらしなく投げ出された両足をタンクは折り曲げて暖炉の隅に引き入れた。
 しかし押し曲げられた天井や壁が、無慈悲にも彼らに向かって迫ってくる。
「タンクさん、ここまでっスかねえ!」
「あきらめるんじゃねえ! 横の金網をしっかり握ってろ!」
 ぐらりと暖炉が後ろに倒れた。と同時にまるでワイヤーの切れたエレベータのように、三人は暖炉ごと落下し始めた。
「うわーーーーーー」

 波多野御殿は完全に崩壊した。
 峻厳な屏風岩と美しい木々に縁取られて、城のように町を見下ろしていた威容は、背後から崩れ落ちた岩に押し潰され、大量の土石流に飲み込まれて、町の目抜き通りまで押し流された。
 山崩れは他の山間部でも起きていたが、ここが最大級だった。町の住民は手際よい誘導によって西の高台へと避難したため、夜にもかかわらず混乱は少なかった。
 特筆すべきことは、被害が最小限におさまったことだろう。最初に崩れたのが屏風岩と波多野御殿だったのが幸いした。剥がれ落ちた岩や、壊れた屋敷の壁などが、土石流をせき止める防波堤の役割を果たしたのだ。駅周辺や山手の十数軒が被災しただけで済んだのは奇跡だった。
 さらに奇跡だったのは死者が皆無だったこと。若干の重軽傷者や、行方不明の者を除いて──。

 気がついたとき、タンクの眼の前にあったのは人の尻だった。
「この野郎! ホーダイ!」
 パンチを見舞うと、ウッと妙な声があがった。
「ホーダイじゃねえのか? ありゃ波多野だ」
 泥だらけの波多野守が虫の息で倒れていた。
 空が白み始めている。周囲には泥と土砂と水たまり、そして倒れた木々が散乱していた。
 タンクは泥の中から抜け出すと、波多野を背中に負って、泥を避けながらゆっくりと歩き出した。
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