− 第140回 −
第六章 光の河III 42
 タケルも祖父ちゃんも何も答えない。頭の中では、井沢先生が高らかにマイクに向かって話す絵しか想像できなかった。
 先生はふたりの顔を交互に見ていたが、やがてため息をつき、
「分かりました。やってみます。でも何て言えばいいのかしら」
 それが問題だ。
「この車は波多野って候補さんの車なんでしょ。ここへ来る道中でお祖父様にお聞きしたけれど、この辺りの名士なんですってね」
「メイシって?」タケルが訊ねた。
「社会的に名の通った、つまりは有名人よ。大和くんのお父さんも大変お世話になったとか」
「それは!!──違う……かも……」
「何だね? 何が違う?」祖父ちゃんが問う。
 タケルが説明すると祖父ちゃんも顔色を変えた。
「たまげたな……。するとなにか、父さんは波多野守にハメられ……ダマされたっちゅーことか」
 ハンドルを握る手に力が入る。
「ひどい話」
 先生が顔をそむけるように言う。
「──男なんてウソツキばっかし……」
 かすかに漏れたつぶやきがタケルに聞こえた。ガラスに先生の眉間に走るシワが映っている。
 タケルは数日前のことを思い出した。あのとき先生は学校の駐車場で泣いていた。悲しんでいた。もしかすると先生は《失恋》したのかもしれない。今日の先生がいつもと違うのは、そのせいなのだろうか。

 街宣カーは目抜き通りにやってきた。祖父ちゃんは車を路肩に止め、ふたりのほうを振り向いた。
「いっそ、波多野の名前を使ったらどうかと思うんだが」
「名案だと思います。早速草稿を作りましょう。大和くん、博士さんから聞いた山の状況をもう一度教えて」
 さすが先生、テキパキしている。

 五分後、いよいよ“街宣”がスタートした。
『ご町内のみなさま、いつもお世話になっております、波多野守、波多野守でゴザイマス。本日はみなさまにお知らせすることがあります。今日の昼まで激しく降りました雨のため、この町の東側に面した山が崩れるおそれが出てまいりました。大きな土砂崩れが発生する可能性があります。みなさま、至急、避難してください』
←次回  トップ  前回→