− 第134回 −
第六章 光の河III 36
 蛍が描く光の軌跡は、毛糸であやとりをするような嫋(たお)やかさで、タケルの瞼の裏に焼き付いた。
 タケルは誘われるままに体を浮かし、両腕を飛行機の翼のように広げると、疲れていたことも忘れて蛍のあとを追いかけ始めた。蛍もタケルを仲間と認めたのか、タケルと編隊を組んで飛翔していく。タケルの足は軽やかさを増した。もはや地面の起伏など気にならない。一匹の蛍になって森の中をすり抜けていく。
 ──夢でも、こんなことがあったような……。
 蛍たちは虚空を乱舞し、タケルに喝采を送った。

 視界が開けた。木々の間から人工物が見えた。
 タケルは足を止めた。蛍の姿はすでにない。
 人工物は立方体の印象を与えた。
 何だろうと首を傾げていると、雲間から久しぶりの太陽が姿を現した。そのまばゆい光線に照らされた人工物を見て、タケルはあっと声を上げずにいられなかった。波多野御殿だ。
 すぐに気づかなかったのも無理はない。いつもは低い町の方向から見上げる存在だったからだ。いまこうやって見下ろせば、こまごまとした屋根や装飾の付いた建物が、まるで玩具のようだ。
 御殿の向こうにはタケルの生まれ故郷の町が一望できた。今頃はどの家も夕食の用意に大わらわだろうか。帰宅途中の人らしい姿も、走る車も、アリのように見える。
 波多野御殿の裏は急峻な屏風岩になっている。タケルは降りる場所を探した。するとその岩に斜めに走る細い道があるのに気がついた。人の手によって作られたもので、手すりが付いている。タケルは難なく降りることができた。

 御殿に遮られて陽光の届かない裏庭に降り立つと、そのまま礎石のそばを右方向へと進んだ。角をめぐると、御殿の大きな通用門が眼に入った。数台の車が吸い込まれていく。中にある広い駐車場につながっているのだ。
 駆け寄って中を覗き込んだ。人がいる。
 ──一番最初に見つけた家に。
 博士の言葉を思い出した。しかし波多野家に博士のことを知らせても、味方になってくれるとは思えない。どうしよう。
 高級そうな外車を誘導していた人が戻ってきた。制服を着て、先にライトの付いた誘導灯を持っている。彼は折り畳み椅子に腰掛けると、脇のテーブルに置かれた皿に手を伸ばした。そして爪楊枝でチクワを刺すと、ポイッと口に放り込んだ。
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