− 第129回 −
第六章 光の河III 31
 ふたりが滑り降りたところは、昼食の時に訪れた、あの湿原だった。午後の激しい風雨によって水はさらに濁りを増していたが、蛙たちは耳が痛くなるほどの熱唱を繰り広げていた。
「タケル、耳から血が出てるじゃないか」
「平気です。さあ行きましょう」
 博士は思わずタケルの顔をまじまじと見た。

 湿原を迂回するにはかなりの時間を要した。
 雨はほとんどあがって風も弱まってきた。
「この下には別の池があってな。今朝話した蛍はそこに群棲しとるんだよ」
 それは湿原の対岸の土手をさらに降り、小振りな丘をひとつ越えたところにあった。
 すでに夕暮れが近い。灰色の雲は依然低い空を覆っている。そんな中でタケルが目の当たりにした光景は筆舌に尽くせないものだった。
 真っ先にタケルを魅了したのは滝だ。
 ザーッという水音。満々とした水。周囲を取り囲む岩に生えた緑色の苔。鬱蒼と繁る森。そして激しい風雨を避けてか、森の深奥に光って見えるのはまぎれもなく蛍のそれだった。タケルは状況も忘れて、ワオ!と叫んだ。
「すごいところですね。こんなすてきな場所を誰も知らないなんて……。ますますダムなんかで潰したりしたら罰(ばち)が──」
 罰──を当てるのは天国の父さんだろうか。
「これは、マズい……」
 博士のつぶやきにタケルは顔を上げた。
「傷が痛みますか?」
「いやそうじゃない。──すまんが池のたもとまで連れていってくれ」
 ふたりはさらに草をかき分け、岩を越えして、なんとか水際までたどり着いた。水面の大半は木の葉や折れた枝などで覆われている。普段なら森に囲まれた静かな水面は、きっと鏡のように、あたりの木々や空や滝の姿を映しているのだろう。まさに台風一過だ。
 しかし博士の両眼は美しい光景を前にして、くわっと見開かれ、鬼のような形相をしている。
「この池はな、以前は半分ほどの大きさしかなかったんだ」
「えっ」
「台風はこの山形に、かつてないほどの雨をもたらした。その結果がこれだ」
 博士は汗にまみれた顔をタケルに向けた。
「決壊寸前だ」
「決壊?」
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