− 第106回 −
第六章 光の河III 8
「ある時期からタケルの父さんの姿を、山で見かけなくなった。たいていは来山する直前に電話で連絡をくれていたんだが。東京など県外への出張も多いと聞いていたから、また機会もあるだろうと思っておったんだよ。そうしたらある日、久しぶりに電話があってな」

『ご無沙汰しております。大和です』

「父さんの声は以前にくらべてか細く感じられた。しばらく互いの近況報告をしあったのち、父さんは思い切ったように、わしにこう言ったんだ」

『──ダム建設が少々ややこしいことになっておりまして、じつはそのことで博士にお願いがあります。私がお見せした計画書や図面に関しては、どうか内密にしていただきたいのです』
『ふーむ、なんだか妙な話だな。まあ君がそうしてくれと言うなら口を閉ざすに吝(やぶさ)かではないよ』
『ありがとうございます。それから誠に申し上げにくいのですが、私と会ったこともどうか──』
『内密なのかね。それはまた水くさいというか何というか……町で会ってもしらんぷりしろと?』
『本当にすみません……。いま大変微妙な局面に立たされておりまして』
『……わかったよ。君の言うとおりにするよ』

「そんなやり取りがあったんだが、それが父さんと話した最後だったかな。あまりな言い分だったのでわしも納得いかず、最後はぶっきらぼうな応対をしてしまった。それが悔やまれる……。
 それは、タケルと出会う少し前のことだったんだよ。タケルと初めて会ったとき、名前を聞き、顔を見て、すぐに息子さんだなと分かった。でも約束があったんで、君の父さんを知ってるとは言えなかったんだよ」
 博士の話はタケルを十分に驚かせた。博士はタケルの顔を見ずに言葉をつづけた。
「タケルの父さんはきっとダム建設を見直すよう会社に訴えたんだ。でもそれは会社やら計画を推し進める人々にとってはマズいことだったろう。わしは父さんによけいな話を吹き込んだヤツということで問題視され、上の人間から今後一切わしに会うな、関わるなと厳命されたんだと思う。父さんも会社の一員だし生活もあるからしかたがない、しょせんは一個の歯車……とがっかりして、その夜は大いにヤケ酒をくらったもんだ。
 でも今は、それが間違いだったと思っている」
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