− 第89回 −
第五章 溝の帯III 25
 残りの猿人たちは岩棚の端っこにいた。岩棚といってもそこは自然の産物だ。平べったい棚のようなものじゃなく、ちょっとした崖の突起ていどで、端っこなどは急角度で落ち込んでおり、立っていられるもんじゃない。
 猿人たちは、道がここでとぎれてるので、つる草と、とびとびに生えている巨大な葉をハシゴ代わりにして地底世界の地表まで降りて行こうとしていた。
 なにしろ足もすくむような高さだ。強い風も吹いてる。それでもこわがる素振りもなくつる草に飛び移っていくのは、さすが樹上生活になれた猿人だからか、それとも花の匂いに毒されているからなのかわからない。
 サユリとぼくは息せききって彼らに近づいた。
 キョウスケがいた。ぼくらの足音に気づいて振り向いたようだが、目はうつろなままだ。
 問答無用なサユリはいきなりこぶしを振るった。しかしこぶしは空を切った。キョウスケが腰をかがめてよけたのだ。彼は眼にもとまらぬ速さでサユリを足払いにかけた。サユリはもんどり打って倒れた。危ない。ここはもう岩棚の端っこに近い。ひとつまちがえればそのまま落下だ。
 サユリは倒れたまま注意深く体勢を立て直した。
 キョウスケの眼に異様な光がやどってる。さすがにブラウン族のリーダーだ。花に狂わされても体は身をまもることを忘れない。
 サユリはあおむけのまま、じりじりとキョウスケに近づいた。そして左で蹴ると見せかけて右のキックを見舞った。フェイント攻撃だ。しかしキョウスケには通用しなかった。彼はサユリの動きを見切ったように、振り下ろされた足を脇にかかえるや、ガブリと噛みついた。サユリはたまらず悲鳴をあげた。
 そのままキョウスケは、肉を食いちぎらんばかりに頭を振りまわすと、吐き捨てるように放り出した。顔面が血まみれだ。サユリは右太股を真っ赤にしてのたうち回っている。
 勝負あった。
 キョウスケは勝ちどきのおたけびをあげると、何ごともなかったように、つる草に飛び移った。最後にニヤリと笑ったような顔を見せると、そのまま下界に降りていった。
 岩棚の上にはサユリとぼくだけが残された。ウンウンうなる彼の手の間から血がしたたり落ちている。ぼくはどうすればいいかわからず、彼のそばにしゃがんで、ほおを叩いた。サユリは痛みにたえて眼を開けたが、首を横にふった。
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