− 第86回 −
第五章 溝の帯III 22
 姉の息は激しく乱れ、全身汗みずくで、手をあげるのも億劫だという顔をしていた。さっきまでとは別人のようだ。いったい何をしたの?
 それでも姉はぼくに抱きかかえられ、半身を起こすと、サユリのほうへさぐるように眼をやった。ぼくもつられて彼を見た。
 サユリはその巨体をむっくりと起きあがらせていた。彼の眼がこちらを向いた。姉を見ている。さっきまでとは眼の色が違ってる。
 ──彼にも見せてあげたの。
 な……なにを?
 ──あなたに見せてあげたのと同じものをよ。地底世界のようす、そこでの暮らし、そしてどうやって滅びたかということを。……あの匂いの正体は何か。そして、いま地震や火山の噴火がひんぱんに起こってるときに、地底世界に降りていくことがいかに危険かということも。
 それを彼の頭の中に一気に流し込んだの?
 ──いいえ、彼はわたしをずっと捕らえて放さなかったでしょ? その間に少しずつ覗かせていたの。だから彼との間に道ができていた。時間がなかったので一気に見せたら疲れちゃったけど。
 ぼくは感心した。彼らから逃げ出すことより、仲間に引き入れる可能性を考えていたんだ。
 ……でも真実を知って本当にぼくたちの味方になってくれるかどうかは、賭けだ。ぼくたちの身の安全が保証されるとも限らないし。
 果たして彼は……。
 サユリは、しびれが抜けたかどうか確認するように両手を握ったり開いたりしていた。
 そして次の瞬間なにを思ったのか、急に立ち上がると、穴とは違う方向に向かって駆け出した。
 驚いて見ていると、彼は湖にザブと飛び込んだ。
 ひょっとして頭の中に押し寄せた映像が、彼を狂わせたんじゃないだろうか?
 湖に入ったサユリはなかなか出てこなかったが、浮上した彼の両手には引きちぎられた光りゴケが山のように握られていた。そして湖からあがり、ぼくの前に来ると片手を差し出した。おそるおそるそれを受け取ったが、絶対に狂ってる! なんと彼は光りゴケを自分のふたつの鼻の穴に突っ込んでいるのだ。彼はそのままの顔つきで、どうだというしぐさをした。
 ──これで匂いはかげないだろ、と言ってるわ。
 ……なるほど。
 彼は「さあいくぞ」という身振りをした。そして妻にコケを手渡すと、地底世界の穴に向かって走り出した。口ですうはあと呼吸しながら。
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