− 第85回 −
第五章 溝の帯III 21
 顔つきだけでなく、ボブ・サップのような体格まで人間サユリに似た猿人サユリに比べれば、ぼくなんて虎の前でおびえるウサギみたいなもんだ。片手で山の向こうまで放り投げられてしまう。でもせめて彼をどうにかしない限り、ブラウン族たちを救うことはできない。
 サユリは眼をいからせ牙をむき出してぼくを威嚇した。邪魔するな、と。
 さらにぼくの首をつかもうと腕を伸ばしたとき、姉が駆け寄って、彼の眼の前で両手を広げた。
 サユリの手がとまった。表情が変化した。うっとつばを飲み込んだような顔にとまどいの色を見せた。姉が彼を睨みすえる。
 サユリはなぜかバツが悪そうに体を引いた。しばらく姉に鋭い視線を投げつけていたが、やがて心配げな妻子をうながして穴に向かおうとした。
 ──彼の気を惹いてちょうだい。
 姉はそう言ってぼくのそばを離れ、足音を立てないよう注意しながら、鍾乳石の林の中に入っていった。何か算段があるに違いない。ぼくはそう合点して身を起こした。
 サユリ親子は雲の上を歩くような足取りで地底世界への入口へと近づいていく。相変わらず花の匂いが効いてるらしい。油断はある。
 ぼくはサユリの左足に飛びついた。そしてその丸太のような太股の裏側に思いっきり噛みついた。
 アアア〜〜という声をあげてサユリはぼくを払いのけようとした。それに耐えてもうひと噛みすると、彼はたまらず、音を立てて地面に倒れた。
 これでいいのか? と顔を上げると、姉が飛び出してきて、サユリの後頭部に飛びつき、両足を太い首に巻き付けた。
 さらに姉は両腕で彼の頭を抱え込んだ。その瞬間サユリの体はビリビリと、まるで電気ショックに打たれたように震えた。伸びた手足が空を掻いた。
 姉は渾身の力でサユリの頭部を絞り上げてる。でもその程度で彼がダメージを受けるとは思えない。ぼくは不思議に思いながらも、じじつサユリは反撃せず、じょじょに手足から力が抜け、おとなしくなっていくのに驚いた。
 ようやく静かになると、姉はサユリから離れた。サユリは気絶することもなく、開いてる眼は左右を泳ぎ、ぽかんと口を開けたままだ。
 ぼくは姉に駆け寄った。肩で息する姉は、
 ──完了。
 そう言ってぐったりした顔をぼくに向けた。
 完了? どういうこと?
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