− 第84回 −
第五章 溝の帯III 20
 ──地底世界につながってるのよ。
 姉は顔をこわ張らせながら断言した。
 ──光りゴケは地底にしかないし……。
 姉は気づいてたんだ。ぼくたちは地底世界のすぐそばまで来ていると。
 そうしてる間にも、ブラウン族たちは次々と地底世界へ続く穴に足を踏み入れていく。
 止めなきゃ!
 ぼくは彼らの前に飛び出した。肩を揺すったり、腕を引っ張ったりしてみたが、うつろな目でぼくの手を払いのけるだけだ。まるでハエを追い払うように。頭の中は匂いの妄想が充満してるんだ。
 ──私たちベージュ族は、ある程度慣れているけれど。
 知ってる。「免疫」っていうんだ。
 口からだらしなくよだれを垂らす猿人たち。ぼくと同じでみんな丸一日何も食べておらず、十分に空腹だった。巨大花の匂いはそんな胃袋を直撃したんだ。
「ウオオオオオ(止まれえええ)!」
 叫んでみても誰も耳を貸さない。キョウスケでさえ、ものすごい形相で降りて行ったんだ。ぼくたちに打つ手はないのか。
 目の前をよたよたと引きずるような足が通り過ぎていった。見上げたぼくの口から「ああ」と声が漏れた。
 小さな子を抱えた女性だった。
 あのとき。
 地割れの縁につかまっていた子猿。
 木の実をお礼代わりにくれた母親。
 子猿の眼がぼくの眼と合った。彼はキィッとひと鳴きすると、母親の手を離れて近寄ってきた。穴に吸い寄せられていた母親も子猿の後を追ってきたが、ぼくの顔を見て立ち止まった。
 この群れにいたとは知らなかった。
 この世界に来て初めて出逢った猿人の母子。
 子猿……いや子供がぼくの背中に登ってきた。覚えていてくれたらしい。母親がぼくから子供を引き剥がそうとする。ぼくは子供を背負ったまま後ずさりした。母親が怒った仕草で近寄ってくる。また逃げる。こうでもしないと助けられない……。
 ふいに背中の子供が消えた。あれっと思う間もなくドンと突き飛ばされ、鍾乳石に頭をぶつけて眼から火花が飛んだ。痛みをこらえて見上げると、サユリが片手に子供を抱いていた。母親が安心した顔で彼に寄り添っている。
 そうか、サユリが父親だったのか。これは面倒なことになってしまった。
←次回  トップ  前回→