− 第83回 −
第五章 溝の帯III 19
「よく知ってるね」
 ぼくは潤った喉を鳴らした。
 ──そうね。珍しいコケよね……。
 姉はハッと息をのんだかのようだった。
 そのとき誰かがぼくは背中を蹴飛ばした。もんどり打って一回転したぼくは、湖の中へ頭から落下した。あわてて水面に浮上すると、キョウスケやサユリがこちらを睨んでいた。顔つきを見れば言いたいことは分かる。
 姉が手を貸して、すくい上げてくれた。
 キョウスケは噛みつかんばかりに顔を近づけて吠えまくった。
『こんなところまで引っ張りこみやがって、どこに出口があるってんだ!?』
 そう言ってるのだ。ぼくには返す言葉もない。“父さんの霊”の導きだと言ったところで、誰にも理解できないだろうし。
 サユリがキョウスケに肩を寄せて、何やら言葉をかけた。キョウスケはチッと舌打ちし、サユリと共に離れていった。
 ──とにかく周囲を調べてみようということになったみたい。
 姉はそう言い、ぼくの濡れた体を手で拭った。
 ──でも、もしかしたらここは……。
 言葉が途切れた。ぼくも気づいた。
 妙な匂いがするのだ。それも強烈で、なんとも表現しようのない、うっとりするような香りだ。
 ぼくと姉は腰を上げ、匂いの元を確かめようと歩き出した。周りにいた他の猿人たちも、同じように妙な顔をして、同じ方向に歩いていく。
 やがてぼくたちは鍾乳石の陰で口を開けているマンホールのような穴の前に群がった。匂いはその中から漂ってくるのだ。何なんだコレは?
 甘酸っぱくてどこか懐かしい感じがする。米沢の家にいたとき、誕生日に食べたケーキを思い出す。チョコ、生クリーム、イチゴ、……。
 ──しっかり!
 姉がぼくの頬をパシッと叩いた。おかげで夢想の世界から戻ることができた。頭を振って穴を見直すと、ブラウン族たちがひとりまたひとりと香りに誘われるまま、穴に降りて行く。誰もが眼をとろんとさせ、だらしなく口を開いている。
 ──覚えてない? これは地底世界のあの花の香りよ!
 ぼくは姉に見せられた映像を思い出した。紫の水玉模様で彩られた花びら。素晴らしい香りと極上の蜜で猿人たちを虜(とりこ)にする、あの巨大な花。
 するとこの穴の先は──。
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