− 第77回 −
第五章 溝の帯III 13
 ガクンと地面が傾いた。足が滑った。
 驚いて開いた眼の前で、ぼくの乗る岩盤に亀裂が走り、みるみる広がった。崩れる!
 岩盤がぼくを乗せたまま、ものすごい音をたてて溶岩流の谷底へと落下し始めた。
 怖い! 助けて!
 ぼくはこんなところで死ぬ!?
 わけもわからず猿人として消える!?

 ──いまにわかる。

 突然、周囲が無音になった。声はその中を弾け飛んだ。「ボク」の声だ。
 ──“いまにわかる”
 何かを納得したわけじゃない。恐怖が消えたわけじゃない。でも……その言葉にぼくは、地獄に堕ちたカンダダの前に垂らされたお釈迦様の糸を見出した。井沢先生が軽やかに教科書を読み上げる声と共に……。
《君ならできる》。大男さんは言った。
 姉さんがあの穴の向こうでぼくを待ってる。傷ついた猿人たちも待ってる。ぼくの手の中にある細い糸の先にぶら下がって──。
 切っちゃいけない!
 ぼくは眼を剥いた。いろんな考えが頭の中を行き過ぎたのは、ほんの一瞬だ。
 地面を蹴った。つかんだ岩をバネにして跳んだ。
 目測している暇はなかった。無我夢中だった。 右手の指先がかろうじて崩れ損ねた岩に届いた。しかし左手は空を掻いた。
 だめだ。落ちる!
 その時、右手をヒシとつかむ者があった。
 顔を上げてぼくは自分の眼を疑った。猿人サユリだったのだ。ぼくの体は軽々と持ち上げられ、地面に放り投げられた。

 ようやく地震が治まってきた。
 サユリはしばらく左右を見回してから、ぼくに吠えかかった。ぼくは谷底を指さして猿人ムネオが落ちたことを告げた。彼は信じられないという顔をしてぼくに殴りかかった。
 その腕を何とかつかみ、思い出したくない情景を今一度頭の中に再生した。
 通じたのか彼はがくっと膝を落とし、しばらく谷底を見据えたまま動こうとしなかった。
 彼にとってはぼくよりショックが大きいはずだ。たぶんムネオを心配して後を追いかけて来たんだろう。気の毒なことをした。
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