− 第70回 −
第五章 溝の帯III 6
 殿(しんがり)になったぼくは巨木船のスクリュー役をつとめた。バタ足をしたり、疲れると蛙泳ぎをしたり。仲間たちの動作は泳ぐというよりも木に掴まって水を掻いている程度だったが、彼らにとっては初泳ぎだろうからしかたがない。
 しばらく泳いでいて気づいた。猿人に泳ぎは不向きだということに。体毛が濡れると体が重くなるのだ。これは計算外。ベージュ号の進みは徐々にのろくなったが、それでも着実に進んでいた。
 ──あなたはいつ泳ぎの練習をしたの?
 そばにいた姉が尋ねてきた。「泳ぎ」という言葉、というか意味は彼女が知るはずもなく、彼女の考えがぼくの頭の中に伝わった時点でぼくの言葉に翻訳されているのだ。
 ──こっそりとね。
 ぼくの言葉に彼女は納得していないようだったが、笑ったような顔をして視線を反らせた。そのとき、彼女が水を掻く手を止めた。何気なくその視線を追ったぼくも彼女が眼にしたものを見た。
 灰色の空と崖の間に動くものが見える。
 ライオンだ。ライオンが獲物に襲いかかっている。その獲物は……なんと猿人だ! 遠くてアリのようにしか見えないが、ブラウン族の猿人たちが数頭のライオンに追われ、襲われていたのだ。ぼくは声を出すこともできなかった。
 追われているブラウン族の数は多かった。中には乳飲み子を抱えた母親の姿も見える。男たちはライオンに牙を向いて立ち塞っているが、全く歯が立たないようだ。
 ──恐ろしい。
 姉の視力では詳しく見えない。彼女はぼくの肩を手でつかんで、ぼくの網膜に映った映像を見ているのだ。
 ──火山の噴火や地震に見舞われて、今まで居たところに住んでられなくなったんだわ。私たちと同じように移動している最中を襲われたのね。ライオンたちも天変地異で獲物が減ったものだから、日頃は目もくれない猿人を襲い始めた……。
 最近覚えた「阿鼻叫喚」という四字熟語を思い出していた。ライオンの数は多かった。猿人たちは次々にそのアゴの餌食になるか、崖の上から千尋の谷底へ飛び降りるしかなかった。
 かわいそうに。ぼくは目を逸らした。そのとき彼らの先を逃げる一団が眼の隅に入った。先頭集団はどうやら崖を降りることのできる地割れを発見したようだ。そこから我も我もと駆け下りてくる。ライオンに立ち向かった猿人たちの働きは無駄じゃなかったんだ。ぼくは思わず応援していた。
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