− 第32回 −
第四章 光の河II 6
 それでもタケルは毎日の生活に、さほど不満はなかった。どこの家も同じだと思っていたのだ。
 タケルが九歳の時、久しぶりに家族三人で出かけたことがあった。それは波多野支店長の末娘の結婚披露宴に出席するためで、父にとっては仕事のひとつだった。会場の波多野御殿は、本物の城のように積み上げられた階層を持つ建築で、後ろを屏風のように急峻な山々に囲まれ、折からの陽差しに燦然と輝き、町を平らげんとする鯨のように見えた。タケルは身震いした。
 披露宴は御殿の中の大座敷で行われた。その広さに驚いたのはタケルだけではなかっただろう。小学校の体育館がゆうに二つは入りそうだ。出席者は多士済々で、地元のTV局まで取材に来ていた。挨拶に立った何人もの地元の有力者たちは、結婚する新郎新婦のこと以上に、口をそろえて波多野家の栄光を讃えた。波多野家と姻戚関係にある某国会議員などは、その長広舌の中で、何人もの議員を輩出してきた波多野家と、父の銀行とが一緒になって現在進めているダム開発を始めとする開発事業を、声高らかに何度も褒めそやした。
 宴の最中、支店長や彼の父である県会議員をはじめ、波多野の人間が何人も紹介されたが、支店長自身の口から武彦が紹介された時には小さなどよめきが起きた。まるで波多野一族の一員かのような扱いである。周囲から羨望の眼差しが注がれて、母は得意気だったが、タケルは父を波多野に奪われたような気がして面白くなかった。
 いやそんなことよりもタケルを愕然とさせたのは、あらためて見た父の姿だった。こんなに痩せていたっけ。別人のようだ。若い時分から旅が好きで国内のめぼしい山は登ったぞと豪語していた体格のいい父はどこへいったのか。血色の悪い顔で周囲の人間に挨拶を繰り返す父。今になって気づいたタケル自身にも驚いていた。

 その頃を境にして、より多忙になった父を、ようやくタケルは心配するようになった。いずれ父はあの鯨に飲み込まれてしまうのではないか、知らない世界に連れ去られるのではないかと思うと気が気ではなくなった。しかし小さなタケルにできることは何もなかった。
 ある日、家でひとり静かに写真集を眺めていたとき、付けっぱなしのTVからアナウンサーの声が聞こえてきた。
『山形県のダム建設および工場誘致に関する贈収賄事件が発覚しました。贈賄容疑で逮捕されたのは、大和武彦容疑者、三十六歳──』
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