− 第20回 −
第三章 溝の帯II 5
 傷ついた父さん猿──父と呼ぼう──に左肩を貸しながら、ぼくは足を止めて、溝の帯を眺めていた。巨大なパノラマだ。グランド・キャニオンに似てるけど、もっと生々(なまなま)しい。神様がむりやり谷を押し広げ、谷底を引っ張り出した──そんなふうに見える。しかもこの風景は最近大きく変わった。数日前ぼくが見たのとは、溝の幅も深さも段違いだ。地面が動いている。活発な地殻変動が地震をしょっちゅう引き起こしてるんだ。
 手をそっと握られた。姉さん猿──いや姉だ。
 ──急ぎましょう。
 言葉はなくとも感情が伝わってきた。父を反対側から支えている大男も、なぜ立ち止まる? と不審そうな顔でぼくを見つめている。ぼくたちは再び歩き始めた。
 ベージュ族は山の斜面にある洞穴を棲み家にしていた。おのおの一家族がひとつの洞穴を占めている。なかには窪(くぼ)み程度の家もある。この辺りは地震の被害を受けなかったようだ。ぼくたちは背負った父ともども、一番高いところにある洞穴に入った。中には母とまだ幼い弟たちが数人いた。母は父の様子を見て驚いたようだが、立ち上がって穴の奥へと入っていった。ぼくたちは草を敷き詰めた寝床に父の体をゆっくりと横たわらせた。奥から戻ってきた母が手にしていたのは薬草らしい。母はそれを口の中でぐちゃぐちゃと噛み砕き、父の傷口に吐き出しては丁寧(ていねい)にこすった。
 夕陽が山の陰に潜り込むと、照らすものは月だけ。洞穴の中はほとんど真っ暗だ。それでも森の木々がわずかに反射させる月の光で、かろうじて家族の動きが見えるんだから不思議だ。治療を終えた母は父のそばに座り込んだ。父の呼吸もだいぶ落ち着いたようだ。いっしょに父を運んでくれた大男はいつの間にか姿を消していた。ぼくは姉と並んで父を見つめていた。弟たちはわけもわからず隅っこで遊んでいる。
 ぼくは居心地の良さを感じていた。なぜだろうか。暗いし狭いし、得体の知れないにおいさえする。なのにこの染みいるような暖かさ。やがて気づいた。家族なんだ。これがアットホームのぬくもりというものなんだ。長い間忘れていた感触。
 家ではいつも独りだった。仲のよい家族を町で見かけると顔をそむけた。TVをつけてもホームドラマではチャンネルを替え、観光地は家族連れで賑わってます、にはスイッチを消していた…。
 肩に腕がまわされた。姉だった。ぼくは姉によりかかって泣いた。でも猿人の体ではうまく涙が出てこなかった。
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