− 第18回 −
第三章 溝の帯II 3
 父さん猿──ほかに適当な呼び方がない──は右腕を骨折していた。動かそうとすると胸を痛がるので肋骨が何本か折れてるのかもしれない。命に別状はなさそうなのが不幸中の幸いだ。周囲の猿たちの接し方をみていると、やはり父さん猿が一族のボスなんだろうということがわかる。何匹かが父さんを背負ったり支えたりして、棲み家まで連れていくことになったらしい。らしいというのは、彼らのしぐさというかボディ・ランゲージでなんとなくそう読みとれたのだ。全身傷だらけの姉さん猿をいたわりつつ、ぼくも付いていく。
 ──早くここを立ち去ったほうがいい。
 また同じ声がした。今度はあわてなかったけれど、驚いた。声は頭の中から聞こえてくるんだ。まるでCDをヘッドフォンで聴いたとき、歌手の歌声が頭の真ん中で鳴ってるみたいに。
 ──茶褐色の猿たちは執念深い。
 三度(みたび)、声は頭の中で鳴った。その瞬間にぼくは理解した。これはぼくの声なんだ。ぼくの脳が発している言葉なんだ。
 周囲が山々に囲まれ、木々が生い茂り、砂埃が立ち上るこの場所が舞台、茶褐色の猿たちや、ぼくらベージュの猿たちが登場人物だとすれば、この物語には語られていない前書きがあるはずだ。いわば物語設定というやつだ。小説では1ページ目から出てくる人物にしても、それ以前の人生が当然ある。いや、あるように見せる。読ませる。つまりぼくに対しても同じわけで、この世界で生きていた分の知識や経験はあるはずなのだ。それを脳が声にして知らせているわけだ。
 わずらわしいから、茶褐色の猿たちを『ブラウン族』、ぼくたちを『ベージュ族』と呼ぼう。
 今日起こった戦争の理由もいまは分かる。この地はもともとブラウン族だけが住んでいた。そこへ最近になってベージュ族が移り住んできた。どちらの種族も木の実が主食だ。ところが美味しい木の実のなる森の広さは限られている。
 そう、これは命がけの領土争いなんだ。敗者は出ていくしかない。──でも事はそう単純じゃない。なぜなら…。
 足の裏に揺れを感じた。地震が来る!
「ガウアウッ(みんな伏せろ!)」ぼくは反射的に叫んでいた。通じるのか? という思いが心をかすめたが、仲間たちは全員合わせたように地面にへばりついた。
 やがて揺れが本格的になってきた。かなり大きい。以前、地割れを目の当たりにしたときの数倍だ。ぼくは恐怖を感じた。
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