− 第12回 −
第二章 光の河 8
 タケルは受話器を握る手の平が痛くなってきたので左手に持ちかえた。右の耳たぶもずっと押しつけられていたので跡が付いていた。
 電話の向こうで、博士が軽く咳払いした。
「──タケル。最近、髪を染めたか?」
「へ?」と思わず気の抜けた声が出てしまった。
「なんのこと? してませんよぉ」
「そうか。いやまさかとは思ったんだがな。タケルが茶髪にしたせいで、夢の中までな…」
 ぷっ。タケルは吹き出してしまった。緊張で肩に入っていた力がスーッと取れた。電話からも、くくくという笑い声が聞こえてきた。しまいには二人とも爆笑してしまった。静かなトーンで。
「なあ、タケル」
「なんですか、博士」
「タケルはいい夢を見たな。本当に羨(うらや)ましいよ」
「へへへ、たまたまそんな本を読んでたから」
「それで見られるんなら、わしなぞ毎晩、猿人たちと宴会しとるはずなんだがな」
「猿酒(さるざけ)飲み過ぎて、研究どころじゃないかも」
「言うなぁ、タケルぅ」と博士は快笑した。
「タケルを起こしてくれた先生は、いい先生のようじゃの? 美人か?」
「井沢美代子(いさわ・みよこ)先生? んーわりとキレイかな」
「ほーほー」
「先生にもね、いろんな本を紹介してもらってるんです。この前も、科学に興味があるならこんな本はどうかなって、シャーロック・ホームズを紹介してくれて。で読み始めたら面白くて、あっという間に全集ひととおり読んでしまったんですよ。自分でも信じられない。これまで物語って興味なかったのに…。その次にはSFもいいかもってことで、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』という本をいま読んでるところです」
 いつの間にやらタケルの舌はターボ全開の自動車さながらに回りまくっていた。少し汗ばんで、熱っぽい。井沢先生の名前が出たあたりからだ。
「その本は未来の科学についてすごくきっちり書かれてるんです。宇宙人がUFOでやってきて、地球人の予想もしなかった進化を促すんだって」
「それならわしも読んだよ。名作だ。クラークのイマジネーションは人類でもトップクラスだな」
「先生言うには、三島由紀夫って人も絶賛してたんだって」
「三島? あかん、わしゃ文学には弱い!」
 そういって博士は苦笑した。
 夏の夜は、虫の鳴き声とともに更けていった。タケルは、また博士に会いたいなと思った。
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