− 第7回 −
第二章 光の河 3
 いつもどおり、祖父母と三人の夕食を終えたあと、居間でNHKスペシャルの世界遺産特集を2時間ほど見て過ごした。9時をまわって、祖母ちゃんが声をかけてくれたので、タケルは風呂に入って汗を流した。
 いつもどおりの一日だ。表面的には。そう、いつもなら入浴で火照(ほて)った肌を夏の夜風が撫(な)でるこの時間には、睡魔が襲ってくるはずだった。でも今日は全然眠くならない。夕方から体を支配しているワクワク感のせいだ。
 タケルが二階の自室へ上がろうと階段の手すりに手をかけたときだった。音楽が聞こえてきた。かすかに聞こえるのは母さんの部屋からだ。タケルは階段をかけた足を降ろし、母さんの部屋に向かった。
「母さん、起きてる?」タケルは扉に声をかけた。
「──ええ」
 声が返ってきた。タケルは静かにノブを回し、扉を手前に開けた。部屋の中から光が差した。母さんの姿を照らし出していたのは、燭台(しょくだい)の上の三本のろうそくだ。
 母さんはベッドに静かに腰掛けていた。この部屋から出ることが少なくなって数ヶ月。顔色は白くなり、体つきもすっかり細くなったけど、痩せこけた印象はなかった。ただ存在感が薄い。タケルには母さんまでの距離が果てしなく遠く感じられた。
「母さん、具合はどう?」
「──いいわよ」
「今日は、えっと、暑かったけど学校へ行ったよ」
「──そう」
 流れているのはピアノの静かな曲だ。母さんが目覚めているときは、いつもこの曲が小机にセットしてあるCDプレーヤーから流れている。
「ぼく、もう寝るね」
「そう──おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 そう応えてタケルは部屋を出て、静かに扉を閉めた。そしてふぅーっと息を吐いた。
 祖父ちゃんには、もっと頻繁に声をかけてあげなさいと言われるけれど、無理だ。母さんを前にすると、つい肩に力が入るし、顔が強ばってしまう。どこか別世界に住んでいるような、あんな母さんを見るのはつらい。ぼくだって泣きたいときはあるんだ。でも母さんの前でそんな顔は見せられない。
 階段を上る途中で、ピアノ曲が消えた。母さんはぼくの顔を見たかったのかもしれない…。
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